翻訳の問題

承前*1

「金成マツノート」翻訳問題についての(世界システム論者ではない?)Wallersteinさんの提言;


事情を知らないのだが、私としてはこれからの金成マツノートの行く末について私案を出しておこう。

まず「年に数百万」というのがそもそも小さすぎる規模だ。これでは翻訳事業が長くかかるのは仕方がない。そこで、だ。翻訳を済ませるだけであれば、COEだ。どこかの大学が金成マツノートの翻訳を核にしたアイヌ文化研究の総合研究プロジェクトを立ち上げる。そしてCOEを申請する。数百万どころか数千万円の規模で金がおりる。翻訳事業に専念する人員を十数人は当てることができる。

その後はその大学で金成マツ研究所か何かを設立し、アイヌ文化の総合研究を行う。これしかないだろう。

もちろんそういうことができる最適の大学は北海道大学だ。現状、アイヌ語を研究しようとすれば千葉大学早稲田大学に行くのが多いという。北海道大学アイヌ語研究のメッカになるべきなのだ。金成マツの甥に当たる知里真志保がかつて教授を務めた縁もある。北海道大学は金成マツノートの翻訳事業の継承に名乗りを挙げよ。
http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20060815/1155648916

これがいちばん現実的といえるのではないかと思う。
ところで、この問題を取り上げているkmizusawaさんのエントリー*2へのコメントで、

年間700万円を28年間も翻訳に割り当ててなんでこれしか成果が出ていないのかというのも考えるべきでは?それとノートに自由にアクセスできたのが「萱野氏ら数人に限られていた」のも問題だと思います。言葉は悪いですが既得利権化してしまい翻訳が進まなかったのではないでしょうか。
というコメント*3。大体、私は語学なんかできませんとか言っている人間に限って、翻訳という作業を軽視している。たんに横のものを縦にすればいいと思っているようだ。翻訳という作業に従事したことがある人ならお分かりいただけると思うけれど、翻訳においては常にgainとlossが生じてしまう。翻訳とはそのgainとlossとどう折り合うかということなのだ。また、翻訳が語の翻訳にとどまらずに、文脈の翻訳であり、文化の翻訳でもある。ましてや、この場合、日常言語ではなく詩的言語である。詩的言語においてはgainとlossの問題はさらに重くのしかかってくる。何しろ、詩的言語においてメッセージのコアを為すシニフィアンが翻訳によって不可避的に破壊されてしまうのであって、その破壊を引き受けた上で、シニフィアンの翻訳を目指さなければならない。また、今回問題になっているような翻訳の場合、翻訳の作業は同時にテキスト・クリティークやアノーテーションを伴い、翻訳によって原テクストを確定していくという側面もあるということを忘れてはならない。
また、『朝日』の記事にあった、村崎恭子・元横浜国立大学教授の「金成マツノートは、日本語でいえば大和朝廷古事記にあたる物語で、大切な遺産。アイヌ民族歴史認識が伝えられており、全訳されることで資料としての価値が高まる」というコメントについて。http://blog.drecom.jp/tactac/archive/974で指摘されているような言語学内部的な事情はわからないが、この喩えが文化人類学(神話学)的な区別――神話/歴史、神話/伝説/昔話――からすると、問題を含んでいるだろうということは私でも指摘できる。これも勿論、翻訳におけるgainとlossの問題に含まれるわけだが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060813/1155434004

*2:http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060814/p1

*3:「ノートに自由にアクセスできたのが「萱野氏ら数人に限られていた」のも問題だと思います」というのは事実誤認。