正気でもなく狂気でもなく元気

http://diary.jp.aol.com/mywny3frv/291.html


「元気をもらう」という言い回しについての違和感by 山口智美さん。
曰く、


何が気になるのだろう?と考えてみると、女性運動界隈で「元気をもらう」という表現が使われるコンテクストに問題があるのかなと思えてきた。思いつくのが、東京など「中央」とされる地域で開かれる集会や、全国規模の集会(たとえばNWECフォーラムとか、日本女性会議とか、民間の団体にしても、様々な地域から人が集まる類いの集会)において、地方からきた人たちが「ここに来て元気をもらいました」という場合。東京の人もいうのかな?でも、私の経験では、「地方から中央へ」「地方から全国規模の集会へ」という状況でよく使われるような気がする。

もうひとつは、自分たちより「若い」とされる人たちにたいして、「元気をもらった」という場合。私も「山口さんに元気をもらった」と言われたことが数度あったが、これらの場合、必ず私より世代が上の人たちから言われた言葉で、同世代や年下から言われた事はなかった。この場合の「元気をもらう」は、「若い人」をほめているようでありながら、どうも自分とは異質のものとして捉えているから出てくる言葉のような気がしてしまう。


まあ、オリンピックみて元気もらった、っていう類いの内容ならわかるけれど、日常の対人コミュニケーションで使われるレベルの、とくに人と一緒に何か取り組んでいる中で使われる「元気もらう」って表現が、受け身でありながら、どこかに「自分とは異質のもの」というニュアンスを感じさせるところがイヤなのかなーと、いろいろ考えてしまうのであった。たぶん、基本的には、地方−中央とか、若いー主流(=「若い人」はいつまでも主流じゃない扱いなので)とかの対比構造を感じさせるところがひっかかるのだろうかなという気がするのだけれど。
たしかに。
山口さんが引くDaily Yomiuri記者の塚原真美さん*1によれば、「元気をもらう」という表現が頻出するようになったのは2001年頃からだという。これは私の記憶とも合致している。別に気になっていたわけではないのだが。また、この言葉遣いが特にフェミニズム界隈で多用されているのかどうかはわからない。
考えてみれば、「元気」というのは貰ったり・あげたり、買ったり・売ったりするようなものではないような気はする。「元気」をあげてばかりいたら、そのうち「元気」が枯渇してしまうぜ*2
「元気」という言葉をメディアに露出させたのは保坂展人さん*3だった筈だが、1980年代には『朝日ジャーナル』で「元気印の女たち」という連載もあって、やはり「元気」というのはフェミとの親和性が高いのか。
因みに、ゴダールのコアを、正気でも狂気でもない元気だと喝破したのは松田政男。たしか、『右側に気をつけろ』に触れて。

*1:http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/learning/english/20060414us01.htm

*2:ただ、道教の導引術では、男女の媾いを男女間における気の争奪戦として捉えていたような気がする。

*3:http://www.hosaka.gr.jp/