受動性と偶然性

 「「命」について」http://web.soshisha.com/archives/world/2006_0727.php


保坂和志さんの新稿。こういうテクストを要約しろというのは難しいし、あまり意味のあることだとも思われない。特に印象に残ったところを引用してみる;


人は誰も決して生まれてくる時を選べないし、自分自身の性格や知能や外見を選べない(性別すら選んで生まれてこれるわけではない)。
 そんなことはわかりきっているけれど、それでもやっぱり、誕生を国中から祝福してもらえる皇室の子どもがいる一方で、生まれてからずうっと2年も3年も虐待されつづけて死んでゆく子どもがいるのはどうしてなのかと思わないわけにはいかない。
 もちろん人は血筋の外に生まれることはできないのだから、虐待されて死んだ子どもが皇室に生まれたかもしれないという可能性はない。しかし同じ夫婦のあいだに生まれた子どもでも、自分と兄弟とでまるっきり別人であるように、卵子に到達した精子のたった一つの違いで自分でない人間が生まれていた。受精という、この本質的な偶然性と受動性を考えるとき、血筋の違いなど取るに足りないことのように思ってしまう私の感覚はちょっと変だろうか?
また、

 人間にとって死は恐怖だが、「自分が生まれていない可能性」をリアルに感じる瞬間は、恐怖というようなわかりやすい感情をこえた、世界の深淵を垣間見た気持ちにならないだろうか。
 私は10代の頃からたまにこの気持ちに襲われることがあって、そのようなときには電車の同じ車両に乗り合わせているすべての人が自分と繋がっているような感覚に捕らわれてしまう。だってこの車両の中の誰がどこで、私の父や母と私が生まれる以前に擦れ違っているか、わからないじゃないか。この車両にいる人自身でなくてもその人の両親の可能性だってある。
 その人が私の父に電車の中で絡んで喧嘩したとか話しかけてきて仲良くなったとか、そういう具体的な関係なんか何もなくても、同じ空間に居合わせただけで、私の誕生と関係がある。それだけは間違いない。自分の誕生へと至る過去は、カクテルグラスを10段積み重ねたピラミッドのように脆く危うく、ひとつでも欠けたら崩れ落ちてしまう。
ところで、伊田広行さん*1の言っていることは共感できる。しかし、すぐに難問が見えてきてしまう。「選び取る」ことを選ぶこと、「選び取る」ことを選べるかという問題。