素麺

昨日(日本時間では一昨日になるが)、義父と2番目の叔父さんと従弟を錦江飯店の前にある「竹村そば」に案内する。
蕎麦も食べてみたかったのだが、http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2006/06/post_3c0f.htmlを読んでいたので、「手延そうめん」を食べることにした。30元。
きっこさん曰く、


ま、ドジョウの話は置いといて、今日食べたお素麺だけど、ホントは、「素麺」じゃなくて「索麺」って書くらしい。正岡子規の日記、「病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)」には、「ソーメソを素麺と書くは誤って居る。やはり索麺と書く方が善い。索(なわ)のごとき麺の意であろう。」って書いてある。でも、どうなんだろう? たしかに、「索」って字は、「なわ」とか「つな」って意味があるけど、あんなに細いお素麺に対して、「なわ」とか「つな」ってのはイメージが一致しない。

だけど、お素麺のルーツを調べてみたら、この字の意味が分かった。お素麺は、もともとは、奈良時代に中国から伝わって来た「索餅(さくへい)」ってお菓子がモトで、ニポンでは「麦縄」って名前でも呼ばれてたくらい、縄みたいな綱みたいな太いお菓子だったのだ。この索餅をニポンに持って来たのは、弘法大師空海)だとも言われてる。それで、この索餅は、単なるお菓子じゃなくて、7月7日の七夕の日に、お供えしたり食べたりするものだった。それは、「七夕の日に亡くなった子供の霊が、村々に疫病をもたらしたので、その霊を鎮めるために、その子供の大好物だった索餅をお供えした」っていう、中国の言い伝えに由来する。つまり、弘法大師なのか誰なのかは分かんないけど、中国から索餅を持って来た人は、索餅だけじゃなくて、この言い伝えも一緒に持って来たってワケだ。

それで、ニポンでも、七夕の日には、この索餅をお供えするようになったんだけど、平安時代のころは、まだ中国から入って来たままの形のお菓子だった。それが、時代の流れとともに、まるで「流し素麺」のように、「餅」から「麺」へと変化して行って、江戸時代には、全国でお素麺が大流行しちゃった。有名な奈良の三輪素麺をはじめとして、全国で色んな素麺が作られて、高級なものは将軍様に献上されたりもした。

実際、グレゴリオ暦の七夕からは数日経ってしまい、農暦の七夕はまだ来月のこと。
また、

ちょっと遅いランチに、老舗っぽいお店に入って、お素麺を食べたら、体温的なことだけじゃなくて、目にも耳にも涼しくなって、「あ〜夏だな〜」って感じがした。薬味は、刻んだ万能ネギの他に、擦ったショウガ、糸切りにした大葉、千切りにしたミョウガ、炒った白ゴマが添えてあったので、ヒトクチずつ色んな味を楽しむことができたし、何よりも嬉しかったのは、お素麺以外のジャマなものが何も入ってなかったことだ。
「あたしは、お素麺や冷麦の中に、カンヅメのサクランボだとか、カンヅメのミカンだとか、薄く切ったスイカだとかが入ってるのが、ガマンできないのだ」という。
出てきた素麺だが、薬味は万能葱と下ろし生姜と山葵。やはり素麺には、茗荷と大葉がないのはさみしい。缶詰の蜜柑こそ浮かんでいなかったが、何故か胡瓜の千切りと玉子焼きの千切りが浮かんでいる。それって、素麺ではなくて冷やし中華の具じゃなかったか。素麺自体の味はまあOK。素麺が30元というのは高い気もするけれど、素麺を浸す水も氷も、上海では水道の蛇口からそのままというわけにはいかない。というわけで、30元のうちのかなりの部分はミネラル・ウォーター代だということになる。
因みに、私は夏食べる素麺よりも、冬に薄口のつゆでいただく温麺の方が好きである。