武田雅哉『〈鬼子〉たちの肖像』

最近、武田雅哉『〈鬼子〉たちの肖像 中国人が描いた日本人』(中公新書、2005)を読了した。
ここでいう「鬼子」というのは、「東洋鬼子」つまり日本人のこと。本書はそもそも「中国人の描いた異人像」というテーマの一環であり、紙数の都合から対象を「日本人」に絞り込んだものである。「あとがき」に曰く、


異人とはいっても、いわゆる外国人だけでは芸がない。中国人が描いてきた宇宙人やその乗り物までを、風呂敷に包んでさしあげる目論見であった。だが、今回は新書という量的な制約もあり、また、まずは自分の顔をじっくり鏡に映してみるべきだとの感を強くしていたので、日本人像のみにしぼることにした(p.240)。
また、この前提として、「いま眼前にあるものではなく、どこかしらに存在するらしきものを、それについて正確に知らないにもかかわらず、それを可視化しなければいけないとき、人はどのような作業をおこなうのであろうか」(p.4)というより普遍的な問題関心がある。
本書では、中国文化における「鬼子」というカテゴリーの前提としての「人」というカテゴリー、また「人」と「鬼」の区別の「集大成」的表現を明代の李時珍『本草綱目』に求める(p.28ff.)。そこで、著者は「一見、排他的な、それこそ「中華思想」ふうの記述の背後に見え隠れしている、「怪異の実在」への寛容さ」(p.34)に注目する。「人」も「太虚のなかの物のひとつ」(p.33)に過ぎず、「気」によってどのようにも変化する。
さて、本書で主に取り上げられるのは、清朝末期に刊行された『点石斎画報』の日本人画像である。同誌の刊行は途中日清戦争を挟んで1884年から1898年に及ぶ。本書の章立てでいえば、3「清朝末期の日本人像」が戦争前、5「戦争と〈倭奴〉たち」が戦争中、6「〈倭奴〉から〈鬼子〉へ」が戦争後ということになる。4「怪物は東洋から」は間奏曲みたいなもので、日本人ではなくて、日本における「妖怪」「怪事件報道」について取り上げている。日本人表象は日清戦争(甲午戦争)を契機に一変し、戦争後しばらく経つと、また沈静している。
実は日本人が「鬼子」として定着するのは、日中戦争を契機としてであり、本書が取り上げる日清戦争を挟んだ清朝末期だと、日本人は「倭奴」と蔑称されていたので、本書は「鬼子」前史であり、タイトルも「鬼子たちの肖像」が相応しいのかも知れない。

中国に対する侵略者としては本家であった西洋人が、むしろ元祖〈鬼子〉なのであり、あとから来た日本人のために〈日本鬼子〉〈東洋鬼子〉ということばが副次的に作られたが、長きにわたる日中戦争によって、〈鬼子〉はすっかり日本人の専売になってしまった。〈日本〉や〈東洋〉を冠するまでもなく、〈鬼子〉といえば、われわれを指すようになったのだろうか。持ち前の模倣のパワーで、西洋人から〈鬼子〉のお株を奪ってしまったということなのだ。これもまた、「脱亜入欧」の輝かしい成果のひとつに数えてしかるべきであろう(pp.221-222)。
この頃の日本人はせいぜい「仮鬼子」(p.220)でしかない。
最後に著者曰く、「ニヤニヤ笑いながら、奇態に描かれた、自分という名の〈異人〉の肖像画のできばえを、隣人同士、たがいに鑑賞しあうのがよろしい」(p.237)。
因みに、

〈鬼子〉−−すなわち外国人の身体が、〈人〉−−すなわち中国人のような構造になっていないこと、なかんずく、外国人の膝には関節がないということは、中国人のあいだで普遍的に信じられていることである。だから、〈鬼子〉が打ち倒されたり、地に押し倒されたりしたら、かれらは二度と起き上がることができないというのである。皇帝が外国人に叩頭の礼を強要しないのは、かれらを死に至らしめかねないようなこと、少なくともぶざまな光景を目にすることを、望まなかったからだというのである(p.226)。
著者は、異人には「関節」がないという理論は中国に特有のことではないという(pp.226-228)。ただ、中国の場合、「関節」の欠如は「悪鬼」(幽霊)や死体も共有する特徴である(pp.228-229)。