日本の風景

 『悪い景観 100景』by 「美しい景観を創る会」
 http://www.utsukushii-keikan.net/10_worst100/worst.html


「100景」といいつつ、まだ70。
よくも悪くも、日本の風景。私のような日本国外で画像をクリックしている人だと、懐かしさのあまり、涙腺が緩んで、目をうるうるさせてしまったという人も多いのではないだろうか。多分、〈愛国心〉がある人というのは、これらの「景観」を何の留保もなしに肯定できる人のことをいうのだろう。そうでない人は自虐景観。とはいいつつ、懐かしさがこみ上げると同時に、選者とともに「悪い景観」だという評価を共有する点も多い。これは例えば、世に謂う〈おふくろの味〉なるものは第三者から見れば田舎臭い素人料理にすぎず、他人に向かって無闇にひけらかさないことが嗜みであるということと関係があるのかも知れない。さらに、景観とか風景とかいうと、視覚的なイメージにのみ関わると思ってしまうかもしれないが、実は私にとって景観とか風景というのは、視覚だけではなく、五感全てに関わるものだといえよう。所謂〈空気〉の如くに。さらに、景観は私という存在の構成的要素でもあり、つまり私のライフ・ヒストリーとの関係で評価されるべきなのだろう。だから、仮令第三者から見て、醜くて惨めな景観であっても、私の形成に関わっている以上、それを否定するということは私の存在自体を否定するということになりかねない。
このように、景観というのは(普遍性を要求する)〈美〉ということには還元しきれないファクターを孕んでいるわけだが、〈美〉にしたって、一筋縄ではいかない。〈美〉が常に道徳性とか社会的常識とかを逸脱してしまう可能性があることはここでは言及しない*1。言いたいのは、当事者にとって、またほかの誰にとっても、〈醜〉でしかないものに、私たちは〈美〉を、或いは〈味〉を見出すことができるということだ。そんなのは、ここ最近のファッションの動向を見ただけで明かだろうし、所謂〈わびさび〉なんかも、そのようにして見出されて、何時の間にかに日本における規範的な〈美〉として制度化されてしまったといえるだろう。その意味で、〈美〉というのは(普遍性を要求するとともに)究極的には主観的なものでしかありえない。
上海にはスラムがある。目障りだから早くぶっ壊してしまえと思っている人もいる。また、現に住んでいる人たちでも、郊外の小綺麗なアパートに早く移りたいと考えている人もいる。しかしながら、スラムにノスタルジックな〈美〉を感じてしまう人もいる。日本の下町の路地とか懐かしい農村風景とかも、そのような眼差したちによって構成されているといっていいかも知れない。
そのような懐かしくも醜い風景の日本に明日帰ることになる。何とも中途半端な一時帰国。

*1:さらに、〈崇高〉という範疇もあるわけだが、これと〈美〉との区別なども、ここでは言及の範囲外。