アートがわかる/わからないの前に

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060430/1146374995http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060501/1146508243との繋がりなのだが、kasuhoさんという方の「理解出来ぬ作り、理屈抜きで怒り(回文)」*1を見つける。曰く、


「説明なしには何もわからない」芸術作品、「美しくも無く、これという感興も呼び起こさない」芸術作品、「分かる人だけ分かればよい」芸術作品。そしてこれに真っ向から対立する、一目で理解出来る芸術作品。そして万人が美しいと思える芸術作品。このような二項対立の図式は、果たして正当なものなのだろうか。

しかし、芸術の目的が「美しい」ものや、多くの人が楽しめるものを生産することでしか無い世界は僕にとっては絶望的な世界だ。分からないものがあるからこそ我々は知ろうとするのだし、またそれによって新たな文化が生産されてゆくのだと思う。「美しく楽しければ良い」という考えは、結果的に多様な文化の発展を妨げることになるのではないだろうか。少なくとも楽しくない、美しくないから芸術として無価値だと断定するのは行き過ぎである。一番上の引用に『「コミュニケート」を拒絶している』とあるが、分かろうとしない、知ろうとしない、美しければ良いという態度の方が余程コミュニケートを拒絶しているのだ。
ほぼ全般的に納得できる。
ところで、「分かる」とはどういことなのだろうか。というか、understanding of understandingを試みてみる必要はないだろうか。周知のように、意味(meaning)は語源的にはwanna sayである。仏蘭西語ではあからさまにvouloir-direという言い方をしている。中国語では「意思」*2。とすると、意味の理解とは、その表現を発したものの意図の理解ということになってしまう。これは日常言語においても妥当性を持っているといえるだろう。日常言語における〈わからない〉という発語は大方〈何を仰有りたいのかわかりません〉というふうに言い換え可能である。こう考える限り、「分かる」ことを巡る思考は直ぐに一件落着ということになる。あとは、〈わかっていただこうとしない非コミュな態度〉とか〈わかろうとしない態度〉といった道徳的非難、若しくは〈わかりやすい表現〉といった技術的問題しか残っていないことになる。勿論、他者の意図を理解することはそもそも可能なのかという根本的な問題はあるわけだが。
ところで、上の「分かる」ことを巡っての議論は、表現というものがそれを発した者(取り敢えず〈著者(author)〉といっておこうか)に私有財産の如く属していることを前提にしている。はたして、そうなのだろうか。表現されたものというのが著者の死後も生き残りうるというのは勿論である。また、この世の中に出回っている表現されたものは、言葉にせよ図像にせよ、その多くは〈詠み人知らず〉の状態で流通している。不在の著者の意図を理解するとは? その在世を想像的に再構成しつつ、もし生きていたらこう考えるだろうと考えるのだろうか。著者に辿り着けない、匿名的なものとして在る表現については? 金正日みたいな特権的な著者を析出することになるのか、それとも〈民族〉のような集合的な著者=主体が発明されることになるのか。
もし「わかる」ことがそのようなものでしかないなら、「わかる」ことは至極簡単若しくは逆に全く不可能のどちらかということになってしまう。また、〈誤解〉や〈曲解〉は「わかる」ことに入るのか。それもあるのだが、「わかる」ことにはまた別の側面があることも事実だろう。例えば、共鳴とも共感とも違う〈わかった!〉という瞬間的な感覚を、著者の意図の理解ということで説明することはできない。ただ、表現に触発されて何事かが起こっていることは確実である。
「わかる」という場合、何が起こっているのか。それを(内面という不可視の領域に踏み込むことなく)記述してみると、記号の置き換えである。卑近な例として、単語の意味がわからなくて辞書を引くということがある。その場合、意味はどのように示されるのかといえば、別の単語を含んだ句若しくは文として示される。つまり、意味というのは問題になっている表現を別の表現(記号)で置き換えることによって生成されるということになる。これは言語表現だけでなく、ワインの味覚的・嗅覚的表現(記号)を言語表現(記号)に置き換えるソムリエの実践もそうだ。「わかる」とはある表現(記号)を別の表現(記号)に置き換えることが成功している状態であるといえる。その意味では、「わかる」とは翻訳である。〈わかった!〉というとき、触発されて出てきた表現(記号)を、何だか知らないが納得しているのであり、〈わからねえ〉という場合は、触発されて出てきた表現(記号)は、自分でも何だか納得できない、それ自体が〈わからない〉ものになっている。
著者の意図の理解ということに話を戻す。(すべてそれに還元することはできないし、するべきでもないが)〈俺のいいたいことをわかれ!〉というのが表現の動機として、それもかなり重要な動機として存在することは認めなければならない。その目標を実現するために、著者は大体はレディ・メイドの素材を使うことになる。例えば、辞書に載っている言葉。図像の場合でも、イコノロジーが確立されていれば、その翻訳(記号置き換え)は(あるコミュニティに属する)誰もが共有しているもの、決まりきったものである。そうすれば、「わかる」ことは、常にほぼ機械的というかトートロジー的に達成されることになる。〈わからない〉というのは、そこで使われている記号のcommonnessが小さいことに関係があるともいえる。つまり、その記号の置き換えのパターンが自明ではないのである。〈わからないぞ!〉という怒りはどんな記号に置き換えればいいんだという苛立ちでもある。
ところで、〈わからない〉ということが「わかる」ことだったり、社会的に共有され、固定化された「わかる」を拒絶して、敢えて〈わからない〉ということもあり得る。イノヴェイティヴな理解というのはこれに発するわけだし、それは究極的には世界を豊かにすること、具体的には共有のヴォキャブラリーの増大に繋がるのである。
著者の意図を「わかる」ことが最重要な課題になるのは、〈命令〉というコミュニケーションにおいてである。最後に、理解を著者の意図の理解に還元するのはコミュニケーション一般を命令に還元することに繋がりかねないということは指摘しておこう。

*1:http://d.hatena.ne.jp/kasuho/20060502/p1

*2:この言い方が古来のものなのか、それとも近代以降、meaningとかの訳語として定着したものなのかはわからない。