左翼とともに「保守」もなくなり

山口二郎「右派論壇の不毛」*1を読む。山口氏による最近の「右派」言説のヲチなり。ここでは、左/右という軸よりも「進歩主義」/「保守主義」という軸の方が重視されている。


 私の言う進歩主義とは、人間は自らの力によって政治や社会を変える能力を持ち、人間にとってよりよい世の中を作り出すことができるという信念を共有するという意味である。また、左とは、政治的平等を最大限、経済的平等をある程度重視し、それらの平等を実現するためには政治権力を行使することも必要と考えるという意味である。かつての社会主義の思想は、経済的平等を最大限追求するために政治権力を全面的に行使することを是認した点で、左翼思想の極端な例でしかない。これに対して保守主義の思想とは、人間の能力の限界をわきまえ、計画や統制によって世の中を変えることについて懐疑的な態度を取ること、権力の介入を排除して個人の自由の領域を守ることを重視することなどを主たる柱としている。謙虚な知性が保守主義の根底にあるということができる。

 進歩主義者が理想を求めて、改革や変化を起こそうとする時には、保守主義者が、「世の中そう単純ではない」とか「人間はそう利口な動物ではない」と言って冷水を浴びせてきたものである。そして、良質な進歩主義保守主義に悪態をつかれることによって鍛えられてきた。確かに、戦後日本における進歩的論壇には大きな欠陥があった。マルクス主義の影響が大きく、進歩派の多くは社会主義の実態を見誤っていた。また、現実政治においては保守長期政権が続き、進歩派は常に少数派であったため、彼らは少数者として常に権力に抵抗することを正義と考えてきた。進歩派知識人にとって権力は常に悪であり、自ら多数を取って権力を握り、それによって世の中を変革するという発想は希薄であった。

ところが、山口氏が危機を感じているのは、

最近は、国内政治についても外交・安全保障についても、本来あるべき進歩主義保守主義の対立軸が崩れてしまった。左が理想を見失い、元気をなくしたことも大きな原因である。同時に、権力の暴走に対して懐疑の声を上げる保守主義者がいなくなったことも大きな変化である。
という事態である。
それで、山口氏による「右派論壇」ヲチの総括は、

各種イベントの余興に大声コンテストというのがある。日ごろ内にひめている感情や欲望を大声で叫ぶという他愛ない遊びである。むき出しの本音という誘惑に身を任せ、過激な言説を競うという点で、今の右派論壇は、まさに大声コンテストの趣である。

 心理学者の速水敏彦氏は近著『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書)で、仮想的有能感という概念を使って若者の心の変容を説明している。若者を中心として、厳しい競争に曝される現代の日本人は、自己を肯定するために、すぐに他人を軽視したり否定したりする。そして、そのことによって根拠のない有能感を持つ傾向があると速水氏は主張する。また、ITメディアの影響を強く受けた人ほど仮想的有能感を持ちやすく、「2チャンネル」をよく見る人において仮想的有能感が強いという研究もある。私はこの本を読んで、なぜネット空間に下品な右翼的言説がはびこるのかについての説明を得たような気がする。

 広範囲の個人の心理に起こった変化は、当然世論にも波及するであろう。日本は国全体として、激しい競争に曝されながら、またバブル崩壊以後の停滞の時期をくぐり、隣国中国の経済的勃興を目の当たりにして、自己肯定感を欲している。過去への反省や主体的努力によって自己評価を引き上げるのではなく、甘い自己認識、世界認識の下で、手っ取り早く他国を見下して、それによって仮想的有能感を得ようとしているのが右派論壇である。政治的意味空間を豊かにするためには、現実感覚に支えられた論理性のある言説が不可欠である。そのような条件を備えた保守言説の復活を祈るばかりである。

というものである。
私は左翼だと思ったことはあったが、「進歩主義者」だと思ったことはない。山口氏の挙げる「保守主義」のトレイトはどれも共鳴するものばかり。しかしながら、「保守主義者」と自称するのも恥ずかしい。昨今流行の成分分析を借りれば、私のXX%は「保守主義」からなっていますということは確かである。
ところで、仲正昌樹って「右派論壇」の仲間なのか。