驢馬の麺麭屋も

ある年齢層以上の人が行う〈なつかし話〉によく出てくるネタとして、〈驢馬の麺麭屋〉というのがある。あのメロディを流しながら、麺麭を売りに来るという奴である。好井裕明・山田富秋『差別と排除のエスノメソドロジー』でも何故か言及されていたし、それに対する西原和久先生の書評でも言及されていた。
さて、もしかするとその〈驢馬の麺麭屋〉もパクられるかもというニュース。この話題はかなり盛り上がっていて、管見の限りでも、


http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060503/p1

http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20060502/1146583947

http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20060503/p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060503#p1


とかで採り上げられている。また、当事者のblogとしてはhttp://mayday2006.jugem.jp/がある。具体的な状況については、上記の記事などを見ていただきたい。
ここでは、「〈驢馬の麺麭屋〉もパクられるかも」という事態からさらに深刻な、或いは一般的な認識を示していると思ったパッセージをメモしておく。先ずは、小倉利丸氏の「30日の「自由と生存のメーデー06」弾圧と共謀罪*1から;


令状無しの逮捕は、それだけの緊急性がなければ認められない例外的な警察権力
の行使であるというのが建前であるが、デモ、ビラ入れなど人々の政治活動や市
民運動、労働運動への警察の対応は、この建前をすっかり捨て去り、いつでも好
き勝手に逮捕勾留できるかのようだ。何の緊急性もなくやみくもに逮捕勾留し、
しかも勾留期間は勾留期限ぎりぎりまで引きのばされ、異常に長い。欧米の反戦
デモなどで、警官隊と衝突して逮捕されても、即日釈放か、長くても翌日には解
放される。逮捕も、警官隊との衝突という混乱を回避する緊急手段以外の意味は
ない。しかし、日本の場合の長期にわたる逮捕・勾留の意図は違うところにあ
る。裁判もなく、長期の勾留を課す意図は、その結果として職を失うなどの損失
を与えて、事実上の精神的物質的な苦痛を与えるある種の拷問であり、デモなど
の反政府的な言論、表現行為そのものを抑圧しようという意図を持っている。
「二度とデモをするな」というわけだ。これほど明白な人権侵害がまかりとおっ
ている国はめずらしい。これは、明確な思想信条の自由の侵害であるが、外形上
はなんらの市民的自由の侵害もなされていないかのように装う詐術に警察は長け
ている。
また、Yasuda Yukihiro氏の「サウンドデモの不当弾圧を見る目、聞く耳*2から;

デモをするときには、申請が必要だ。これは、デモ隊が車道を安全に歩き、自分達の主張を人々に伝えることができるように、警官に交通整理をさせるためだ。
つまりデモの申請は、「デモをやらせてください」とお願いするためにやるのではなく、「デモをやるから、警察はしっかりわれわれの安全を確保しろ」と要求するためにやるんだ。こういう初歩的なことを、警察は忘れているんじゃないかと思う。いや、忘れている。あるいは、忘れたフリをしている。
警察の指揮車の放送で、「歩行中のみなさんは、デモに気をとられることなく…」というのがあった。これは思わず耳を疑うフレーズだった。
デモというのは、歩行中のみなさんの注意を引き、足を止めさせ、自分達の訴えたいことをアピールするために、いろんな工夫を凝らしてやるもの。
「気を取られずに」というのは、つまり「デモ隊の主張に耳を貸すな」と言っているのと同じ。こんな露骨な「表現の自由」に対する攻撃があるか? それも、公務員が「あいつらの言っていることに耳を貸すな」というのだから恐れ入る。憲法遵守義務違反で、即刻処分してもらわなければいけない。