ノスタルジーへの権利(義務ではなく)

swan_slabさん*1が「教育基本法」の「改正案」に盛り込まれるという「国や郷土を愛する態度」について、


多くの場合、国や郷土を愛することが目的となっているひとは少なく、むしろ、幸福追求や自己実現の結果であることが多いのではないでしょうか。

つまり、「故郷に錦を飾る」という麗しき日本的な言葉がありますが、これは都会や外国に出て行って活躍したひとに錦を飾れるふるさとがある、帰れる場所がある、という諸個人の幸福感をいうのであって、自己実現を果たした自分を育ててくれた郷土や共同体を結果として愛したのであって、郷土を愛する心がまずあって、そのために何かをしたということはないわけです。

高校球児もオリンピックの選手も何か共同体を背負っているようにみえるけれども、そういうものは得てしてプレッシャになり、彼らは必ずしも共同体を愛していたからがんばれたのではないでしょう。

共同体からの有形無形の暖かい支援を受け、そしてそれを支えにしつつ、他方でその重圧にたえ、ただひたすら自己実現に集中した結果として、祖国や郷土に誉れをもたらす栄誉をたたえらるわけです。

抽象的にいえば、個々人が幸福追求し自己実現をするのを共同体が支援してくれるから、共同体に対して感謝するのであって、共同体を愛しているから自己実現してがんばって共同体に栄誉をもたらすわけではない。

東京大学に入ろうとしてがんばったひとは、母校を愛した結果として母校の格を上げんとして努力したわけではない。母校でがんばったおかげで東大に合格できたから、その結果として母校を愛したわけです。だからもし、母校でがんばれないと思ったらとっとと見切りをつけて塾通いするはずです。塾通いをして成功すれば、その子はその塾を褒め称えるでしょう。

教えてやっているんだから感謝しろよ、といってきわめて非効率的な学習を強要した母校を愛さずに、たとえ無言でも効率的な学習環境を提供した塾のほうをその子は愛するかもしれません。


共同体への愛がこのようなプロセスで形成されるものだとすれば、次のようなことがいえるのではないかと思います。

すなわち、国、郷土、共同体、家族は、諸個人がその母体に帰属していたからこそ自己実現できたのだと実感できるようなサポートをすべきである、と。

それが郷土愛や愛国心を育むもっとも効果的な方策である、と。


それは実質的には、共同体が個人を尊重し、彼らの希望や幸福追求を指図したり、阻害しないことであり、彼らの自由な活動を可能にする、よりよい環境を整備することでしょう。夢破れた諸個人に再出発する場所を提供することでしょう。

と書かれている。
ちょっと違和感を持った。それは私が〈愛〉というものについて、些か原理主義的な思考をするせいかもしれない。つまり、〈愛〉は何かの手段とはなりえないというか、正当化するものであっても、正当化されるものではない。また、「共同体」*2を個人(例えば私の妻)を愛するのと同じ意味で愛することはできないとも思う。swan_slabさんの書かれたものを読んで、愛というのは〈顧客満足度〉とは違うでしょと思ったのだ。
しかし、所謂patriotismを否定するわけではない*3。多分、それは愛ではなく、場所への愛着(attachment)に関係があるのだと思う。私という個人の実存を考えた場合、私は生まれて以来、様々な自然的・社会的環境(場所)との相互作用によって、形成されてきたといえる。その意味で、そのような場所は私という存在にその痕跡を残している。それを意識するとき、そこに愛着を感じるとき、つまり私という存在と〈切っても切り離せない〉ものだということを意識するとき、patriotismというのは始まるのではないか。因みに、そのような場所は多くの場合、私にとっての重要な他者と共有されたものであり、私にとってのライフ・ステージを画する出来事(eg. 初体験、進学、就職、結婚etc.)と関わりがある場所であろう。また、そのような場所は私にとって、抽象的な大学とか会社として存立しているのではなく、五感に直接訴えるような、風景とか空気或いは温度として存立しているといっていいだろう(その意味で、国家というのはその対象とはなり難いと思う)。勿論、登場する他者もそうである。そういった場所がなくなってしまう場合、私が場合によっては我が身を切り刻まれるような喪失感を経験するだろうということは想像に難くない。ということで、patriotismはノスタルジーへの権利として定義したい。なので、patriotismが育まれるかどうかは、私たち一人一人の生活史に依存するのであって、決して上から強制されたり・教えられたりするものではないと考える。勿論、例えば東京の下北沢のような多くの人の愛着の結節点となる幸福な場所*4もある。
取り敢えず、

したがって、地域共同体を愛せよといいながら、他方で大店法改正や外資参入などで地域のネットワークを掘り崩すような矛盾したことをやってはいけない。郷土愛を説きながら、国策により原子力核燃料再処理施設をめぐって地域共同体が引き裂かれても知らん振りしていてはいけない。郷土愛を説きながら、国家の繁栄のために公害を引き起こし、地域共同体のきずなが崩壊するのをみてみぬふりをしてはいけない。アメリカの要求を次々受け入れながら、他方で個々人には伝統を保守せよと矛盾したことを叫んではいけない。
ということはいえる。

*1:http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20060416/p1

*2:「共同体」については別に再考しなければならないが、私たちは誰もが複数の「共同体」に属してしまっているのであり、その中で国民共同体が特権的である謂われはないと考えている。

*3:英語の文脈ではloveとかは言及されていないのに、それが日本語とか中国語とかに翻訳されることによって、おかしくなってしまうということはある。

*4:考えてみれば、patriotismの感情が強く喚起されるのは危機においてであるので、逆にそういう場所は不幸な場所といえるかもしれない。