「我−汝」、「我−それ」

承前*1
マルティン・ブーバー、その「我−汝」、「我−それ」という2つの「根源語」、少し意外なところに登場している。冨田恭彦『対話・心の哲学』(講談社現代新書)。デカルトの「基礎づけ主義」を巡って;


「(略)ところで、それらの根源語においては、『我』は単独ではなくて、『それ』や『汝』と対になっていますよね」
「そうなんです。ですからブーバーは、この二つの根源語を『対寓語』と呼んでいます」
「ということは、『私』という言葉は、本来、単独で機能するものではなく、あるものと対になって機能するはずのものだということですね?」
「そうなんです。ある場合には『それ』が、またある場合には『汝』が、『我』との関わりにおいてある。反対に言えば、『我』は、『それ』もしくは『汝』との関わりにおいてしかありえない」
「なるほど。『私』という言葉を使うのは、たいてい、誰か『あなた』と呼べる人に対してですよね」
「(略)」
「だけど、ときには、『あなた』のいないところで、独白的なんでしょうか、『それ』について私は語ったりします」
「そうそう。あれはこうだなんて」
「(略)『我』はあるときには『汝』に対して現れ、またあるときには『それ』に対して現れる」
「そうすると、なにに対してでもない『我』というのは、ないわけです」
「(略)」
「(略)」
「(略)もしブーバーの言うのが正しいとしたら、すべてを否定した上での『私だけは少なくとも存在する』なんていう発言は、非常に奇妙な発言だということになりますね。それが関わりを持つはずの、『汝』も『それ』もないわけですから。……あ、いいえ、そうではありません」
「(略)」
「はい。デカルトは、『私が存在する』ということを、やっと見つけた『アルキメデスの点』だと言いますけど、その『私』から手品みたいにいろいろな観念を取り出して、それで『私』から外に出ようとするわけですよね。とすると、例えばその観念というのが、『汝』ではないけど、少なくとも『それ』と呼ばれる私の対象として、『私』という言葉の使用を支えていたわけですよね」
「そう。デカルトは、そういう仕方で『我−それ』関係を暗黙の裡に維持していたと考えられるんです。それに、そもそも、彼の形而上学の語り口は、はじめから『我 −それ』関係の中で機能していたとも言えるんです。汝を前にしない語り口、つまり、独白的なんですね。その独白の中で、『私は存在する』なんて言う。だから、その意味で、ずっと『我−それ』の『我』を語り続けていると言えるわけです」
「とすると、観念にせよなににせよ、デカルトは『私』だけをとりあえず存在するものとして設定しているみたいなポーズを取りながら、本当は、『私』以外のいろいろなものの存在を暗黙の裡に認め続けていたということになりそうですね」(pp.119-121)