『ユダの福音書』

埃及の沙漠で発見されたという『ユダの福音書』について;


 パピルスの断片をつなぎ合わせると,『ユダの福音書』の冒頭の一節は次のように始まっていた。「過越(すぎこし)の祭りが始まる3日前,イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」

 「イスカリオテのユダ」とは,イエス・キリストに選ばれた弟子の一人でありながら,銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切り,接吻を合図に敵の手に引き渡した使徒。その名は今も裏切りの代名詞となっている。しかし,新たに発見された『ユダの福音書』に描かれたユダ像は,まるで違ったものだった。ユダこそイエスの一番弟子であり,他の弟子たちと違ってキリストの真の教えを正しく理解していた,そして,ユダがイエスをローマの官憲に引き渡したのは,イエス自身の言いつけに従ってのことだった――と,そこには書かれている。

 『ユダの福音書』の記述には,グノーシス派と呼ばれる初期キリスト教の分派グループの思想が反映されている。グノーシス派は,物質世界は至高の神ではなく下等な創造神のつくった不完全な世界とみなし,善の究極の源泉である神性は物質世界の外側にあると考えていた。『ユダの福音書』の中で最も重要なくだりは,イエスがユダにこう語る部分だ。「お前は,真の私を包むこの肉体を犠牲とするだろう」

 つまり,ユダがイエスを死に追いやったのは,イエス自身の望みに従った行為であり,イエスをその肉体から解き放つことによって,真のキリスト,つまり内なる神が解放されるというのだ。ユダがこの役割を任されたのは,弟子たちの中で特別な地位にあった証拠であると,この福音書には書かれている。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/tanoshimu/nng_060407.html

だからといって、これが現在公認されている他の福音書よりも耶蘇の思想を忠実に反映しているとはいえないわけだ。「歴史を覆す」かどうかはまだわからない。それは基督教以前の耶蘇の思想をどう解釈するかにかかっているのではないか。「グノーシス派」*1ということだと、説明はすんなりと納得がいく。はたして、耶蘇はグノーシスだったのか。

*1:『読売』の記事(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060407-00000301-yom-soci)は「グノーシス派」に言及していない1点で、駄目記事だな。