「損得を超える価値」?

『読売新聞』の記事なり;


安倍氏教育基本法改正に意欲…損得超す価値教えたい

 安倍官房長官は12日、石川県能美市などで街頭演説し、教育基本法改正について「この国会に(改正案を)提出し、成立させたい」と強い意欲を示した。


 安倍長官は、改正の意義について「損得を超える価値、つまり家族を大切にする、地域のために頑張る、国に貢献することの尊さを教えるための教育改革を行いたい」と強調した。

 現在の教育の問題点としては、「子供が親を殺したり、親が平気で子供を捨てたり、金もうけがすべてという風潮がある。戦後60年間、損得ばかりを価値の基準に置いてきた結果だ」と指摘した。
(2006年3月12日20時36分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060312i212.htm

まず、本当に「戦後60年間」の日本の教育が「損得ばかりを価値の基準に置いてきた」のかどうかは実証的な検討に値するだろう。安倍氏自身が小学校から大学まで戦後日本教育を受けてきたわけだから、自らの経験をサンプルとして具体的に明らかにする必要がある。
ところで、子どもにとって「損得」勘定だけでは「親」は殺せないと思うが如何?


家族<地域<国


この同心円的な社会の想像について、パトリオッティズムをナショナリズムに接続する常套的な政治的レトリックの側面は今更いうまでもないだろうが、社会学的な意味でこの同心円状社会が、この情報化とグローバル化のご時世にリアリティを主観的にも客観的にも有するかどうかということも、再考するに値する。
さて、イラクで人質になった人たちが「損得」勘定でイラクに行ったのではないことは当然ながら、殆どの人が「損得を超える価値」にコミットしている。多分。例えば、趣味に生きるという場合、それだけで「損得を超える価値」にコミットしていることになる。「損得」勘定で行うのは仕事であって趣味ではない(なんか、トートロジーっぽい)。趣味のようなぬるいことではなくて、〈義務〉こそ重要なのだというかも知れない。〈義務〉について本格的に議論するためには、例えばレヴィナスデリダを踏まえたJohn D. Caputo神父の所論を検討することとかは必須なのだが、通俗的な〈義務〉についていえば、ギム、ギムとか喚くのは、礼儀に反する野蛮な振る舞いであるともいえる。Thank you.と言われたら、It’s my pleasure.と答えるのが礼儀ではないか。