小説として読んでいた

J.T.リロイの『サラ、神に背いた少年』について、以前、


J.T.リロイ『サラ、神に背いた少年』、続編が映画化されて既に公開されたらしいけど、(紀伊國屋書店によると)現在この本は品切れ中らしい。ちょっと考えると、母親に憧れて「娼婦」になる12歳の少年という設定からして凄いと思うし、主人公の「ぼく」=「サラ」が生きる経験というのも、例えばドラッグまみれになるとか、悲惨なものなのだけど、文章(金原さんの訳文)を読んでいる限りでは、スティッキーでもドロドロでもなく、とてもさらさらしている。アライグマのペニスの骨のネックレスとか「ジャカロープ」といったアメリカ南部の民俗文化に属するアイテムが物語の進行に重要な役割を果たしており、また南部/北部の対立が物語の前提として横たわっている。それよりも、先ず「ダヴズ・レストラン」のメニュー、例えば「山のようなエッグズ・ベネディクトと、聖書くらい厚いカキの実入りのパンケーキ」(p.7)とか「キングサーモンウェリントン」(p.12)が美味しそうだった。但し、「ケンタッキーコーヒー」は遠慮しておきたいけど。 
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050627
と書いた。
さて、町山智浩氏は、

1月発売の雑誌New York誌によれば、

30歳代の作家志望の女性ローラ・アルバートが自分で書いたやおい小説「サラ」を売り込むため、JTリロイという少年が書いた自伝ということにしたそうです。

それで、リロイがインタビューに出る時は、ローラのBFのジェフリー・ヌープという男の妹にリロイの役を演じさせたということ。


要するに竹宮恵子が「風と木の詩」を「ジルベールという少年の自伝です」と言って売り込んだようなものだ。

でも、リロイに会った人はすぐに女だとわかったので、今、性転換の途中だとか言ってごまかしたんだって(なんとマヌケな)、

と書いている*1
上に自ら引用したものを読む限り、私はこの本を〈小説〉として読んでいたようだ。勿論、「リロイ」という男性が自分の経験をネタにしていたということは信じていただろうし、当然ながら女性の書いた「やおい小説」であるなどとは考えもつかなかった。
何故、〈自伝的〉ではあるもののフィクションとして読んだかといえば、上の引用にもあるように、プロットとは関係のない細部ばかり注目していたのと関係があるかも知れない。私の理解では、自伝の欲望は、私の生の経験の諸々の断片を(誇らしいにせよ、惨めであるにせよ)自伝を書いている時点での私を帰結とする因果関係に組織することである。当然、因果関係に組み込めないような経験は周縁的なものとして切り捨てられるし、細部の生き生きとした具体的な記述などは、本筋(因果関係)に直接関係しない限り、顧みられない。それに対して、フィクションの場合は、物語(因果関係)が展開する舞台としての〈世界〉を構築することが先ず優先される。そうでないと、実在の私という支え(support)を欠くので、物語のリアリティが維持できないのである。言葉ではなく、映画の喩えを使えば、フィクションを愉しむためには、セットが張りぼてであることをエポケーしなければならないし、エポケーできなければならないのである。世界の構築、それは具体的な世界を構築することである。私たちは一般性の世界を生きているわけではないから。そこで細部が呼び出されることになる。作者の細部を描き込むという身振りが多分私にそれがフィクションであることを感知させたのだと思う。私の記憶に頼っていた場合には、自伝的因果関係に繋がらない細部は端的に覚えていないのだし、もし描き込むとしたら、文献の引用や他者の証言で補わなければならなくなる。その場合、自伝はエクリチュールのジャンルとしては歴史に近づくといえるだろう。或いは、具体的な細部は描き込まれるというよりは、写真などの引用によって、添付資料として示されるといえるかも知れない。とはいっても、自伝的小説ならぬ自伝を装った小説というのもあるわけだが。
私も半分は騙されたことになるのだが、それにしても、実話への欲望というのは考えてみるに値するテーマだろう。町山氏はほかにも〈自伝擬き〉の例を挙げているけれど*2、私たちはかくもtrue storyを欲望するのか。これについては、今のところ、理由不明としておこう。

*1:http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060221

*2:過去のトラウマに関しては、嘘、間違った記憶、誇張された記憶、妄想的な記憶の区別という悩ましい問題もある。少なくとも、後ろの3つの場合は当人にとっては真理ではある。