滋賀の事件を巡って

承前*1
滋賀県の〈園児殺人事件〉を巡る幾つかの記事を読んで。服部正法、高橋慶浩、平野光芳「<滋賀園児殺害>鄭容疑者、農村支える「中国の嫁」」*2は、「異文化」を問題にする。ただ、私が驚いたのは、というか無知を悟ったのは、「琵琶湖と伊吹山地に囲まれた湖北地域にある長浜市。この地域には、同様に来日した中国人女性も多い」、また(「中国の嫁」の)「需要を支えるのは、農村部の慢性的な嫁不足だ。湖北地域では、高齢の父母との同居や農作業をいとわない「中国の嫁」を好意的に受け止める声もある」という部分。長浜市ってそんな場所だったのかということだ。私の乏しい知識では長浜市羽柴秀吉ゆかりの地だし、その隣の彦根市は井伊家の城下町。そういえば、以前に五十嵐さんが彦根と長浜をレポートしていた*3。但し、そこに描かれたのは決して所謂僻地ではない。全国どこにでもありそうな、三浦展ならば「ファスト風土」と呼ぶだろうふつうの場所である。
また、別の記事*4を読むと、この女性は過剰なくらい日本(具体的にはその住んでいる地域なのだが)に適応しようとしていたことが伺われる。問題はここら辺にありそうだ。過剰に適応しようとするから、ちょっとした(第三者的に見れば)何でもないようなトラブルを深刻に受け止めてしまう。勿論、要因としては、過剰な適応を促すような社会的圧力(俗に言うところの〈空気〉)もあれば、個々人のパーソナリティの違いもあるのだろう。
そう考えると、これはたんに〈日本−中国〉とか〈農村〉という問題には還元できないだろう。例えば、ビジネスでキャリアを積もうとする女性或いは女性管理職には資本の論理とか組織の論理に過剰に適応してしまった(しようとする)人が多いような印象がある*5。それによって、自他のストレスは倍増する。それに対して、オヤジの方はどこか距離を置いて資本や組織と付き合っているというところがあるのではないか。その〈距離〉の有無を生じさせる社会的メカニズムが問題だといえば問題なのだが。
どのような社会においても、少々不適応なくらいがちょうどいいといえる。