社会学的想像力を基礎づけるものは?

 勝又正直さんのBlogから。最初にお会いする前までは、折原浩の直弟子のウェーバリアンということで、正直言って、恐々だった。しかし、実際は、気さく且つ話題の豊富な方で、ICUでの研究会を中心に色々と興味深いお話を伺い、刺戟を受けた。その中でも、印象に残っているのは、東急資本による神奈川県民の殖民地化というネタなのだが、これは何らかのかたちで字になっているのだろうか。
 さて、「社会学的想像力」について曰く、


いまあなたが1杯のコーヒーを飲んでいるとしよう。コーヒー豆を通じてあなたは南米と砂糖を通じて中南米とさらにそれらを操る巨大資本とつながっている。水道水を使うことで日本の環境問題とつながっている。近年日本の家庭に広まったコーヒーを飲むという習慣を共有する人々とつながっている。そしてそれはテレビのコマーシャルや番組での飲むことに影響されている。コーヒーを飲むという1つの行為は広く社会へとつながっているのだ。また今あなたが新聞を読んでいるとしよう。あなたが新聞で見かけた中高年の自殺の数字は、実はリストラ、離婚、ホームからの飛び込み、というような人間ドラマをその1つ1つが持っているのだ。
 1つの具体的行為からそれを取り巻く社会の連関へと思いをめぐらすこと、1つの抽象的数字から具体的な人間ドラマに思いをめぐらすこと、具体的な顔のみえる行為と社会の抽象的な語りとの間を自在に往復できること、それが社会学的想像力である。
http://shakaigaku.exblog.jp/3362526/ 
勿論、ここに書かれていることに異議があるわけではない。その通りだと思う。誰でも、ここに書かれていることを瞬時に理解することが可能であろうし、社会学を初めとする社会科学はその〈瞬時の理解〉の理論的な裏付けやデータ的な裏付けを提供してくれる。しかし、これは「想像力」及び推論で構築された世界、私の直接世界の外側にある、私の世界の精々周縁にしか属さないような現実である。私の世界には、直接知覚し・経験することもできないが、まあ存在することは何となく分かっているという領域があること、そのような領域を含んだものとして私に世界は現れているということ、どんな大層な社会理論の基礎にも、この世界の現れという問題が横たわっている。或いは、この問題を自明なこととしてスルーすることによって、そのような社会理論が可能になるといえるのかも知れない。だから悪いというわけではない。ただ、この(身体でもある)私に世界が現れるという準位に拘ってしまっている。私は〈社会〉を語るときには、この準位との不器用な「往復」を常に続けることになる。そういうことだ。
 また、http://shakaigaku.exblog.jp/3370079/アレントの所説を纏めたところは単純化のしすぎの感もあるが、アレントとの対比でハーバーマスについて述べた部分、

アレントにあっては、地球上に生き、世界に住むのがひとりの人間ではなく複数の人間であるという事実、すなわち「複数性」(plurality)がきわめて重視されていたのに対して、ハバーマスの討論の世界は、高地ドイツ語(ドイツ語標準語)を使いこなすインテリの世界に堕してしまっているのである。
は引用に値する。
 また、http://shakaigaku.exblog.jp/3370125/での、ウェーバー音楽社会学について纏めた、

 脱呪術化した世界観の下で、音階はそれまでの固定的な旋律の呪縛から自由になった。それまでの音階が旋律に拘束され、主音から音階形成がなされていたのに対して、音階内部の自律的で合理的な分節が目指された。有理数(rational number直訳すれば合理数)によるさまざまな音階分節が試みられたが、二分の一、三分の二、四分の三、という有理数による音程の分節は相互に不整合をもたらした。結局、有理数による音程分節はあきらめられ、無理数(irrational number直訳すれば非合理数)による音程分節がなされることになり、それが「平均律」となった。この平均律は和声的には常にわずかながら不純であるが、自由な移調や転調を可能にし、その結果、西洋音楽は飛躍的発展を遂げることになった。
 平均律音階は、提示された主音から合理的の音階形成をしようとしない。すなわち音階の外から与え提示された音から出発して合理的な音階をその度ごと形成しようとはしない。すでにできあがった音階でそれに対応しようとする。その時々の現実に適合しようとする合理性をヴェーバーは「実質合理性」と呼んだが、それは否定されている。平均律はあくまでも自分のなかの閉じた無理数による分節による音階を適用する。外のものとの完全な対応を放棄することで、その内部の整合性・体系性を追求するこうした合理性を、ヴェーバーは「形式合理性」と呼んでいる 。
という部分、勉強になります。