構築された本質、それは外から? 内から?

 kmizusawaさんが怒っている*1。つまり、九州で何か性差別的な事件があると、〈九州は男尊女卑だから〉と風土的本質に還元され、それで説明したつもりになっている人が多いけれど、それってどうよ? ということだ。ちょっと小難しい言葉で言えば、外部者による〈本質〉の構築を通しての本質主義的還元への不満・批判ということになるだろうか。
kmizusawaさんは〈九州人〉として、外部の人間の本質還元主義的な視線に反発しているわけだが、本質還元主義というのは外部からだけでなく、内部からのものも当然考えられる*2。或いは、オリエンタリズムナショナリズムの相互補完性と相互反発性というテーマも思いつく。ここで直接いいたいのは、〈九州は男尊女卑だから〉というのは、外部の人間だけでなくて、〈九州人〉自身によって、自らを正当化したり批判したりするときに、お手軽な道具として使われているんじゃないかということ。私の経験からいうと、例えば〈日本〉について外国人が〈日本人はさ〉云々ということよりも、〈日本人〉が〈日本人はさ〉云々ということの方がむかつく。それ自体が差別的な前提かも知れないが、外国人の場合は、まあ外人だから仕方がないと寛容になれてしまうのである。それに対して、〈日本人〉が〈日本人はさ〉云々という場合は、お前に〈日本人〉を代表する資格があるのかとかお前がいうところの〈日本人〉に俺は入っているのかとか、むかつきまくりなのである。さらに、それが外部の言説に迎合しているような場合には特に。だって、外部の人にとって、当人たちもそう思ってるというのは、その言説の正当性の主張にそれなりの役割を果たす。少なくとも、〈お前が勝手にそう思ってるだけだろ?〉とは突っ込めなくなる。
ところで、kmizusawaさんのテクストでもkmizusawaさんによって突っ込まれている「がおこ」さんのテクスト*3でも、非難或いはエクスキューズとして、「九州のことをよく知らない」、「九州を良く知らない」というフレーズが使われている。対象を「よく知」れば知るほど、そのディテイルを感受すればするほど、安易な一般化は不可能になるわけで、逆にこういう物言いが〈無知〉の産物であるという言い方も可能なのだが、私たちは(例えば)〈九州人〉を〈知ること〉ができるのだろうか。或いは、〈女〉を知ることができるのだろうか。不可能でしょう。だって、私たちが知りうるのは、(〈女〉に属しているかも知れない)AさんとかBさんといった具体的人物であり、決して〈女〉そのものではないからだ。AさんとかBさんといった具体的人物と〈女〉という一般項を繋ぐもの、それは〈女ってえのはさ〉云々という言説、特に「云々」という補語或いは動詞句に当たる部分であろう。つまり、〈女〉にせよ、〈日本人〉にせよ、〈九州人〉にせよ、一般項が主語として、主題として機能するのは、補語或いは動詞句と結びついて言説を形づくることそれ自体によってである。換言すれば、一般項は不断に補語或いは動詞句を求め続けているともいえる。
以上では、例えば〈九州人〉というふうにギメで囲んでいる。「自分の住んでる島(笑)を悪く言われると反発の気持ちがわいてくるのはぷちナショナリズムのあらわれなんでしょーか(^^;))」とおっしゃるけれども、私を一般項に繋げるとき、私は〈想像の共同体〉を構成し、それに参与していることになる。〈想像の共同体〉の構成・維持においては、鉄道、郵便、新聞、教育、或いは靖国神社といった装置の役割が論じられている。或いは、外部の視線。例えば、〈亜細亜〉。外部からかくかくしかじかのものとして視られている者同士という意識が〈想像の共同体〉の構成を導く。〈九州〉の場合はどうなの?と思ってしまう。
どう結んでいいのか分からなくなった。そもそもの疑問は〈九州は男尊女卑だから〉という言い方って、いったい何時頃から誰によって始められたのか、そういえば〈九州男児〉なんていう言い方もするな*4ということだったのだ。

ところで、ここでリンクを張ったこともあるblogがプライヴェート・モードになっていた。「ネット・ストーカー」を避けるためであると。ここを経由して侵入したという可能性もないことはないので、気も重くはなる。