言葉を巡って

 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060206/1139201519で、内田樹氏の「まず日本語を」*1に言及したのだが、「はてな」の中だけでもこれに言及したエントリーはけっこうあるものですね。その中でも、特に注意を引いたのは、「いっつあん」さんのもの*2とえこまさんのもの*3である。
 「いっつあん」さんの、


 "美しさ"という高い次元の話ではなく、言語表現というツール獲得のためには、他人の文章を音読するなどの模倣作業が有益だと思う。実際生活を送る上で(自分を含めて)現代人の言語の幅は非常に狭いと思われる。

 スーパー銭湯に行った時、大学生ぐらいの男性数人が"やべえ"という言葉だけ連呼していた。感動を表す言葉がいくら流行だと言え"やばい"だけでは寂しい。

という意見は、私のと近しいように感じる。また、曰く、

 私個人の意見としては、"美しさ"を押しつけられるのは少々鬱陶しいが、個人の経験のみで言語生活を送るのは心許ないように思う。いろいろな文章を復唱するのは有益なトレーニングだと思う。ただ、"文学"という狭い範囲ではなく、もっと低い次元における実践的な言語表現を、もっと初等,中等教育で扱うべきだと思う。
(内田氏の意見に関して)

 ただ"美しい日本語を"というところがやはり引っかかる。前項でも書いたが、"美しさ"の押しつけは価値観の画一化に繋がるものではないかと思われるのだ。それより大切なのが、誰でも使えるような簡単で論理的でわかりやすい表現を教えること。必ずしも美文である必要はなく、実生活で使える表現を教えること。


 言語にとっての美しさを否定するものではないが、教育で教えるべきことはもっと実践的な"使える"知識ではないか。

勿論、私も「"美しさ"の押しつけ」とか「価値観の画一化」は危惧する。しかし、「実生活で使える表現」とか「もっと実践的な"使える"知識」というふうに、〈実用性〉に拘るのは、またどうかなと思う。勿論、それを否定するわけではない。しかし、言語を発することには身体性のレヴェルに属する快楽ということもあるのだ。だから、言葉の響きやリズムといった言語の唯物論的次元は、狭義の意味には直接関わらないものの、決して捨象してしまっていいというものではない。また、リズミカルだということは覚えやすいということに繋がるし*4、いくら実用的とはいっても、会社のセールス・トークや官僚の答弁のような文ばかり暗記させられたら、たまらないでしょう。
 なお、「いっつあん」さんのテクストで興味深かったのは、

 他方、英語を教えてみると分かるが、習得の障害になっているのが実は日本語の能力である。具体的に言うと、人称(私とあなたと家族と他者と…)、時制、単数と複数、修飾etc…これらの概念を日本語として理解できないために、当然ながら英語のそれも意味不明になってしまう。これが中学3年生ぐらいになると驚くほど理解が速くなる。日本語能力があがるから、他言語の世界も理解できるようになるということだろう。


 以上から考えられることは中学生に英語などは教えず、日本語教育を徹底すべきだと言うことだ。そして十分表現力を身につけてから英語を学び初めても遅くはないと思う。抽象的なものを言語世界に導く学習は日本語を通じて、それが終わってから英語という異文化に接する方が良い。抽象世界を母国語としても理解できないままに他言語に接するのは、やはり苦痛な作業なのではないか。

という部分。多分、大学の先生なんかが、〈最近の学生の言語能力は……〉云々とお嘆きになっているのは、このことと関係しているのではないだろうか。敢えて、異論を唱えておくと、私たちは取り敢えず安定した日常言語の世界に浸りきっている限り、いちいち抽象的なことを考えたりしない。考えざるをえなくなるのは、その安定性がストレンジなものと遭遇することによって揺らいでしまうときであろう。とすれば、中学生が英語というものと遭遇するというのは、「安定性がストレンジなものと遭遇することによって揺らいでしまう」ことといえないだろうか。「日本語能力があがる」ことによって「英語」が理解しやすくなるというだけでなく、逆に「英語」という「ストレンジなものと遭遇することによって」、日本語を通じての抽象的思考能力が活性化され、「日本語能力があがる」ということも考えられないだろうか。
 
 えこまさんは、

ちなみに昨年の授業の聴講時に先生が語ってくださったことだが、昨今では「漢文」が中学校だか高校だかでは「選択科目」になり「必須」ではないようになってきたことを大変嘆かれていた。

確かに私のころは古典の中に当然のように「漢文」があった。

「国敗れて山河あり」とか。

「盾と矛」の話とか。

寸鉄 人を刺す」とか。(←コレ好きだった)

漢文が必須でなくなる替わりに英語のリスニング教育に力をいれたり、いよいよ教育現場に「アメリカングローバリズムの罠」が迫ってくることに先生は警鐘を鳴らし危惧されていた。


センター試験にリスニングを取り入れたり「発音を少しでもネイティヴに近づけよう」という日本の学校教育現場の傾向を、英語のオーラルに力を入れれば入れるほど、われわれ日本人はアメリカにとって都合のよい日本人になるように仕立てられていることを指摘されていた。


つまり英語新聞など読んで「英文に対するリテラシー力」を育てるよりも、いつまでも「英語のオーラル」の方に教育重点を置いて、発音や聞き取り能力に縛り付けておいたほうがアメリカにとっては都合がいいのだ。

私も海外に行ったときにやっぱりまず英会話!とか発音!とか考えた。

でもでも、内田先生のご指摘はとっても重要だと気づかされた。


中高生時代に漢文が選択科目になれば、日本の文化に歴史的に多大な影響を与えてきた「中国」が将来日本を担う若い日本人にとってはいよいよ縁遠く、おとなりの中国の文化が「英語のそれ」に比べて日本の教育現場でいよいよぞんざいに扱われつつあるような気がする。


先生は現代中国論ではよくこうおっしゃられていた。日本と中国はあまり親密すぎず、ちょっと緊張感と危機感がある間柄の方が、アメリカにとっては都合がよい。つまり日中関係がちょっと危うい方がアメリカにとったら「仲介役アイデンティティ」が保てるのだ。

と書いている。文中でいう「先生」とは内田さんのことですよね。この記事に対するコメントのやり取りも面白いので、おいおい言及していきたいけれど、このインターネットのご時世でいちばん重要になる英語力は、話すこと・読むことと並んで、書くことでしょというのは、さておき、「漢文」の話。「漢文」、特に訓読という仕方で受容された「漢文」というのは、中国語でもなく日本語でもなく、つまりはクレオール的存在なのだが、中国文化に属するというよりは日本文化(それも、ひょっとしたら日本人の文化的アイデンティティの中心近くに位置するかも知れない)に属するものでしょ。だから、たしかに訓読された漢詩には中国語(の諸方言)で発音された場合の音としての美しさはないし、イメージも(与謝野晶子がおちょくったように)野暮で権威主義的なものだけれど、「漢文」を肯定するかどうかというのは、そのような、またクレオールなものとしての日本の文化的なアイデンティティを肯定するかどうかということだと思う。
 コメントの中で、kleinbottle526*5さんは、

たどたどしいながらも英語を話す人間としては、中途半端な発音でグダグダと文法ガチガチの英語を話す日本人より、発音がよくて(悪くても通じればいいんですが)スパスパ話せる日本人の方が、戦略上アメリカに対抗する場で有利だと感じています。もちろん、対抗するために相手の言語を使わなきゃいけないというのは間違っているのですがね。ですから、やるなら道は2つ:(1)英語を学ばず、日本語だけで世界に主義主張を表現して行く(2)議論に耐えうる英語をスパスパと話せるように訓練する。後者の場合でも、「相手の言語を使ってやっているんだ」という意識を持って、対等な話し方が出来るようになれば、問題はないと思います。問題は、英語を話すことがなにかカッコイイことになってしまっていて、英語話者に対して「こんな英語の出来ない自分と話をしてくれてる!」みたいな態度になっている日本人が多いことだと思います。これは、アメリカングローバリズムのせいでもありますが、同時に日本の人たちのアメリカ賛美が僕には気持ち悪く見えます。
と書いている。これは主に国際戦略という文脈での話なので、文脈を取り違えていたらごめんなさいということなのだが、この場合、重要なのは、決して「英語」だけに対峙しているのではないということじゃないか。少なくとも、エクリチュールというレヴェルだと、人文・社会科学にしても文学にしても、先端的な人というのは、亡命者*6や移民であったり、マイノリティであったりという何らかの〈外部〉を背負っている人でしょうし、WASPの場合であっても、エリートであればあるほど、(日本語や中国語も含む)外国語とか古典語という〈外部〉を背負っている筈。そのような相手に何らの外部も持たず対峙しようというのはちょっと無茶なのかも知れない。
 また、june_tさん*7

>ロジカルで音韻の美しい日本語の名文
こう書かれるとわたしは、「津軽弁でもええやん」となぜか関西なまりで口走ってしまうのでした。(笑)
なんかそんなふうにして「書き言葉」(たぶん男性の物が中心)で訓練され尽くしていくと、「豊かなことば」の多様性が消えていくような気がするな〜。
内田さんには〈方言〉に対する意識が稀薄であるようには感じます。ただ問題なのは、「書き言葉」中心というよりも、標準語中心、さらにいえば〈言文一致〉、より正確には〈思言文一致〉という発想ではないでしょうか。また逆に、話し言葉を重視すればするほど、仮名という表記システムのからくりによって、〈方言〉は消えていく(というか、仮名の許容する範囲に限定されていく)ということにならないでしょうか。

 論理の筋道は乱れに乱れていますが。

*1:http://blog.tatsuru.com/archives/001540.php

*2:http://d.hatena.ne.jp/ittuan/20060205

*3:http://d.hatena.ne.jp/eco1/20060204

*4:だからこそ、その危険性を軽視してはならないのだが。

*5:http://d.hatena.ne.jp/kleinbottle526/

*6:歿後にも拘わらず、私が師と仰ぐシュッツやアレントもそうだった。

*7:http://d.hatena.ne.jp/june_t/