共和制その他

 Kmizusawaさんは書いている;


天皇制でなくてもいいなら「共和制」になるだろうけど、今の日本の現状で共和制ってのもなんか恐ろしいような… ポピュリズムに支配されてるところで国家元首も投票で決めるというのはかなり怖いな。今も天皇は政治的権限は持ってないのだから実質的にはあまり変わらないような気もするけど、直接選挙で選ばれる大統領と、国会で議席が多い党の党首が就任することになってる首相ってやっぱり違わなくないですか。(と恐ろしく政治に無知な発言をしてるような気が…) てなわけで理想は共和制だけどまだ天皇制の今のほうがマシかもしれないとも思うとはっきりと反対できない。天皇制がすべての身分差別の源泉とまでは私は思わないし。
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060206/p4
私はhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060205/1139111281で、

反天皇制〉を名乗る言論や運動は多い。不思議なのは、(管見の限りでは)〈共和主義者〉と名乗る人がいないということだ。一方が〈共和主義者〉と名乗ることによって、共和制か君主制かというpolityの選択の問題として政治になりうる。また、それによって、ルサンティマンだとかなんだとかを超えたクールな政治的問題としての議論が可能になるのだと思う。〈反天皇制〉を名乗る限り、政治的に無徴であるマジョリティとそこから逸れた有徴者(札付きの者)という対立に自らを閉じこめてしまうということにならないだろうか。
と書いたのだが、私は「共和制」の方がいいとは思っているが、それには然したる根拠はない。共和制の方が君主制よりもそれ自体で優れた政体であるとは思わない。現代世界で札付きだとされている国家は、イラクにせよ、中国にせよ、米国にせよ、北朝鮮にせよ、「共和制」ではないか。また、北欧の福祉国家フィンランドを除いて君主制である。よく君主制は遅れていて、共和制は進んでいるという〈進歩主義者〉がいるが、古代ギリシア以来、君主制と共和制は政体のモデルとして並列していたのであり、一方が進んでいて他方が遅れているというものではない。そうであるにも拘わらず、大した根拠もなく、共和制を好む。
 ところで、「直接選挙で選ばれる大統領と、国会で議席が多い党の党首が就任することになってる首相ってやっぱり違わなくないですか」とおっしゃるけれど、大統領制というのは君主制に限りなく近い共和制ですよね。たしか、米国の大統領選挙の研究書で、Choosing Our Kingというタイトルのものがあったような気がする。君主制と違うのは任期付きだということである。だから、大統領制は、法の支配、連邦制のような権力分散のメカニズムが上手く機能しなければ、また何よりも民衆レヴェルでの共和主義精神が枯渇してしまえば、容易に独裁政治に転化してしまう危険性を持つ。かつての韓国やフィリピンを想い出そう。ただし、独逸のように、大統領は象徴的な地位に止まり、実際の権力は首相に集中するという制度もありますけど。それはともかく、(日本の天皇制も含む)立憲君主制では、国家における権威と権力は(取り敢えずは)分離している。もし天皇制を廃止するとすれば、それをどうするのか。天皇制に反対する人々は、〈反天皇制〉に留まることによって、そうした問題に直面することからは免れている。しかし、そうである限り、そのテロスである天皇制の廃絶は実現できない。可能になるのは、右翼が天皇制を利用することに抗すること、換言すれば、〈君側の奸〉を取り除くことだろう。天皇制に反対することこそが天皇制を護持するというパラドックス。それはそれで決して悪いことではないだろうが、本人たちの意に添ったものでは決してあるまい。また、さらに重要なのは〈国民国家〉の解体ということだろう。これも主権者が世襲されるという君主制の一形態なのであるから。

 また、大阪の「野宿者排除問題」について、Kmizusawaさんは、実際に「排除」に携わった「公務員」について、「良心に反することを職務命令でさせされているってことで、これも一種の「暴力」だよな」、「他人に暴力ふるわせるのも「暴力」だと思う」と述べている。これは〈死刑〉という制度について、私が思っていることのひとつでもある。〈死刑〉という制度について述べたことがあったが*1、そのときは言及しなかったが、この制度に反対の理由の一つは、実際に死刑囚を吊す刑務官の良心の問題である。〈死刑〉という制度に賛成の人にとっては、(管見の限り)刑務官は自らの所業について思い悩むこともなく、粛々・サクサクと処刑という業務を遂行するものだという前提があるらしい*2。言い換えれば、〈死刑〉制度においては、処刑という暴力を一部の人に委譲することによって、国民誰もが暴力に直面することを回避しているのである*3

 Kmizusawaさんは、「正義」*4について、


私もけっこうニュース記事や他人のブログなどから拾ってきた材料で批判的なことを書くが、私がそれを批判する理由はただ単に「自分がそれを言いたいから」だけだ。私はこの記事を見てこう思いました。それだけ。もっと言うなら「気に食わない」から。「引っかかる」から。だから文句を言う。疑問を感じたから、使えそうな材料や知っている言葉を使ってそれを言ってみる。我ながらシンプル。

「正義」とかいう動機じゃない。まして相手のためでもない。社会のためでもどこかの「弱者」や「少数者」のためでもない。そういうのを言い訳に使うな。怒っているのは自分であって、どこかの「社会的弱者」じゃない。代弁できるなどと考えるのも間違っている。
.と書いている。そうだと思う。ただし、そこまで〈自虐的〉にならなくてもいいんじゃないかとは思うけれど。
 勿論、「正義」の意味というのは、デリダの『法の力』以後には不可逆的といってもいいくらい変化した。「正義」は、そもそもある、或いは実現すべき〈実体〉ではなく、脱構築する運動それ自体ということになったからだ。にもかかわらず、或いはそうであるが故に、「正義」は恥ずかしいという感覚を保持していたい。そうでなければ、「正義」は(デリダ以前の)偉そうな〈実体〉に逆戻りしかねないのである。丸谷才一的な言い回しを借りれば、「裏声で唄へ」ということである。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060127/1138329871

*2:〈死刑〉という制度に反対の人でも、このことに言及しているのをあまり知らない。

*3:これが差別という問題系と密接に関連していることはいうまでもあるまい。

*4:http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060202/p3