「みんな」


  内田樹「「みんな」の呪縛」http://blog.tatsuru.com/archives/001520.php


 オルテガに依拠しつつ、「大衆社会」とは「「みんながやっていること」は「よいこと」で、「みんながやらないこと」は「悪いこと」という」原理の社会であるとする。そして、「無知な人間の方がそうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることができる」。何故かといえば、「ある程度世間を見てきて、世の中にはいろいろな人間がおり、いろいろな価値観や美意識や民族誌的偏見やイデオロギーや臆断があるということを学んできた人間はめったなことでは「みんな」というような集合名詞は使えないということがわかってくる」からである。
 このところ、内田さんに文句ばかり垂れてきたが、このことについては、文句なく同意できる。ただ、それを〈京大アメフト部員強姦事件〉にそのまま適用できるかどうかはわからない。というよりも、その事件についてよく知らないのだが。しかし、ネガティヴ・フィードバックのない状況、社会関係というのはやばそうだ、くらいはいえるだろう。上に謂う「無知な人間」或いは〈世間の狭い人間〉というのは、たんに知識量が少ないとか知り合いが少ないといった量的な問題なのではなく、ネガティヴ・フィードバックの(あまり)介在しない状況に長らく置かれてきた人間、ということなのだろう。