モヒカンVSムラ社会?

 酒井泰斗氏経由で、


  松永英明
  「修正しました。ウェブの二つの文化圏の衝突【前編】無断リンク禁止問題にみるリンクする側・される側の論理」
  http://kotonoha.main.jp/2006/01/05weblink.html

「ウェブの二つの文化圏の衝突【後編】ネガティブリンクと批判する側・される側の論理」
 http://kotonoha.main.jp/2006/01/05negativelink.html


を知る。
 「前編」の方では、松永氏は、ウェブのリンク問題を巡って、「リンクフリー文化圏」と「相互リンク許可文化圏」の2つの文化圏を区別する*1


リンクについて開放的……とは、いわゆるリンクフリー主義者、ウェブのバリバリのユーザー的な発想である。もともとWWW(ワールドワイドウェブ)とは、アンカーリンクという機能によって成り立っているのだから、リンクは自由であって当然だし、ウェブに公開するということは全世界にさらされることなんだ――という、極めてウェブ的な考え方だ。そして、実際問題として、リンクされることそのものを防ぐことは難しいし、現実的ではない。つまり、「リンクは、リンクする側がすべて力を持っていて、リンクされる側は技術的なアクセスコントロールをする以外に防ぐ方法はない」という考え方だ。

 一方、リンクについて閉鎖的……とは、いわゆる日本の一般社会におけるルールを適用する考え方である。ホームページとはまさに文字通り「わたしのおうち」なのだから、勝手に土足で踏み込むようなことはやめていただきたい。リンクするなら事前に断るのが礼儀作法だし、また、玄関(トップページ)からではなく裏口(個々のページ)にいきなりたどり着くような誘導(ディープリンク)はまったくもって失礼だ。――というのが、この「無断リンク禁止」=「リンク許可制」あるいは「相互リンク」文化圏を象徴する考え方である。簡単に言い換えれば、「リンクは、リンクされる側がすべてコントロールすべきだ」ということだ。

 まず、こういう文章を読んでいると、数年前に巻き込まれた、某新聞社のデスク先生主宰の掲示板を巡る騒動をどうしても思い出してしまうのだけれど、まあどうでもいいや。そういえば、先日の「一茶一坐」*2では烏龍茶を飲んだ。その頃から、〈2つの文化〉問題というのはそのまま変わっていないということか。
 さて、松永氏は「相互リンク許可文化」を「いわゆる日本の一般社会におけるルール」に結びつけている。これに対する私の考え方はちょっと両義的だ。たしかにそうなのかもしれない。でも、物を書くという文化を考えてみると、そうでもないような感じがする。物を書くとき、直接引用した場合は勿論のこと、参照したという程度でも、その出典を記するのは当然のことだ。そうしないと、盗作になる。その際、原著者に(勿論、私信とかだと話は別だが)引用してよろしいでしょうかとか参考文献に加えてよろしいでしょうかなどとお伺いを立てることはあるだろうか。勿論、そんなことはない。ウェブ上でリンクを貼るというのは、その出典を記すことである。だから、「日本社会」にしたって、その中の〈物を書く文化〉においては、そんな掟はないことになる。書物の感想とか批評というのは、ウェブにしてもblogにしても、そのコンテンツの定番であるといえるわけだが、「相互リンク許可文化」の人が自分のサイトで、読んだ本の感想を書き記すとき、わざわざ著者や出版社に、御著書の感想をウェブに載っけてよろしいでしょうかとお伺いを立てているのだろうか。そんな話は聞いたことはない。とすると、もし「相互リンク許可文化」の人が自らの立場を「いわゆる日本の一般社会におけるルール」を盾にとって正当化しているとすれば、それはウェブが特別であることをさらに正当化しないかぎり、ダブル・スタンダードになるのではないだろうか。因みに私は「リンクフリー主義者」である。
 「後編」で興味深かったのは、


 自分でもまとめていて意外に思われたのだが、2ちゃんねる(特にネットウォッチ板)の住人(以下「ヲチャー」と略す)は、インターネット特有の文化圏ではなく、むしろ一般社会に近い「知らぬが仏文化圏」に属すると考えるのがよさそうなのである。彼らのローカルルールは「ウォッチ先 さわらず荒らさず まったりと」で、「ウォッチ先への書き込み」さえもが「厳禁」とされている(これを破るのが「突撃厨」で、ヲチャー内部から批判を浴びる)。つまり、悪口を言っている、観察していることを相手に知られてはならないわけで、「知らぬが仏」でトラブルを避けようという発想である。
ということ。また、こうした混乱というのは、松永氏のいう「文化」の違いに起因しているということもあるのかもしれないが、氏が

 ここで問題となるのは、ウェブでは、批判を受けることそのものがどうしても避けがたいということである。

 一般社会にいると、その批判は自分のところまで届きにくい。テレビに出たりなんかすると話は別だろうが、批判は有名人ばかりが受けている印象がある。いきなり見ず知らずの人から激しく批判されることなど、よほど目立つところで何かやらない限りありえない。しかし、それは人目につかないから批判されないだけのことである。身近な人たちからは何か思われていても、目の前で言われないことが多いだろう。それが日本の一般社会だ(日本に限らないかもしれないが)。

 しかし、ウェブでは違う。だれもが多くの人たちの目にさらされている。好意的な人たちばかりではなく、何も思わない多数の人、そして批判してくる少数の人たちの存在がどうしても目についてくる。同じ考えの人たちだけが集まって、そうでない人を排除するのは難しい、というか、無理だ(mixiのようなSNSはウェブとは別の社会だと思うのでまた別途)。

と述べているように、誰でもがセレブ並みの広い世界(可能的には全世界)と繋がってしまう技術的条件を手にしてしまったことへの戸惑いの症候なのかも知れない。
 最後のジェームズ・アレン『幸福に通じるひそやかな道』を援用した話には、どういうわけか納得。


さて、中野昌宏氏の「初ツッコミ」*3ですが、笑ってしまいました。ところで、中野氏はスモーカーなの?
 ところで、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060104/1136402751の、「血pin」=shoppingですが、最初その字を新聞で見たときには吃驚した。Pinのてへんを「食」と勘違いして、血の餅? 病院に運ばれたということも書いてあるじゃないですか。一瞬、餅に何かが入っていて、それを食べて血反吐でも吐いたんじゃないかと思ってしまった。

*1:ところで、「2005年夏に急遽浮上してきた「モヒカン族」キーワード」とある。「ネットの一種「殺伐」とした作法を、世紀末の荒野でハンドアックスを投げつけてくる「モヒカン族」のイメージに投影する一方、それに反する「一般社会のルールでネットを生きる思考」を「ムラ社会」と名付けていた」ということなのだが、知らなかった。たんなる無知の告白。

*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060101/1136137336

*3:http://nakano.main.jp/blog/archives/2006/01/post_53.html