作田啓一

 そもそもは浅野智彦さん経由の情報なのだが、作田啓一先生のブログ『激高老人のブログ』*1が話題になっている。「83歳のブロガー誕生」*2というわけである。中野氏によると、作田先生のコラムはBC出版のサイト*3に掲載されていたのだが、中野氏がそれをブログ化するよう提案したという。以前のコラムも正論のオンパレードで、そもそもこういうのは、例えば〈大新聞のコラム〉というかたちで公衆の目に触れるべきものと思うが、それがウェブやブログというかたちで発信されるというのも時代の流れなのだろうか。
 さて、作田先生12月21日のブログ;

 「小学生に否認された大学生の凶行」
http://gekko.air-nifty.com/bc/2005/12/post_8b51.html

京都府宇治市の塾講師による小学生殺人事件を取り上げている。この事件は「いわゆるストーカー殺人の一変種」として捉えられる。曰く、


ストーカーは相手と良好な関係を結ぼうとして相手を執拗に追い求める。良好な関係がついに得られないことが分かった時、時としてストーカー殺人が起こる。相手を殺してしまえば、欲望の対象そのものが消失すると同時に、それを追い求める主体自身も破滅してしまうのだから、合理的に考えればそれは無意味な行為である。しかしあえてこの非合理的な行為を強行する者も出てくる。それは相手に否認されてきた自分の存在そのものから、その行為により解放されるかのように思うからだ。この塾講師も生徒に否認されてきた自分から解放されたかったのだ。彼は「楽に」なりたかったのである。
勿論、「ストーカー殺人」の場合、重要なのは「殺害にまで及ぶ対象へのこだわりの強さ」なのだが、作田先生のように、

1990年代からテレビゲームが普及し、子供たちはそれに熱中して対人関係が稀薄化した、と言われてきた。23歳の大学生はそういう子供時代を経験したとされる世代に属する。しかし子供が独りで過ごす時間が仮に多くなったとしても、そのために対人関係への興味を失い他者に是認を求める傾向が弱くなるとは思えない。むしろ逆に、独りで過ごす時間が多くなると(テレビゲームへの熱中だけではなく、少子化や親の共稼ぎなどのために)、対他欲望は強まると考えられる。しかし一方、この欲望の肥大に反して、他者の是認をかち取る能力のほうは衰退している。このギャップが犯罪の引き金となるのだ。このアルバイト講師は大学の図書館で2度にわたり、女子学生の持ち物を盗もうとした。金ほしさよりもむしろ関係をつけたい欲望が屈折した形で出てきたのだろう。この場合も性欲を伴う対他欲望が能力を上回っているために惨めな結果を招いた。
と考察するのもけっして間違っていないのだが、「ストーカー」という現象の根本にあるのがある種の混同であることに注意しなければらない。〈汝指向〉と〈かれら指向〉の混同。本来相手に対してビジネスライクに(だがしかし、失礼なきよう)接しなければならないのに、そこにビジネスライクを超えた〈親密性〉を求めてしまうこと。或いは、作田先生の表現を使えば、そこに自己に対する「他者の是認」を求めてしまうこと。こうした混同は常に起こりうるものだともいえる。恋愛の発端というのは大概そのような〈混同〉だといえるかもしれない。ただ、その〈混同〉を促進しているのが〈消費社会〉であることは否定できないだろう。商品の消費に物質的満足以上/以外の何物かが求められる社会。或いは、ビジネスの対象がモノというよりはヒトになった社会。
 考えてみれば、自然を含むモノを相手にした労働(いわゆる一次産業、工場労働、事務職etc.)というのは、数の上では既に少数派になっているのではないか。ホワイト・カラー労働の主流は人間相手の〈営業〉である。店員というのは勿論お客様相手だし、組織内部の人間を相手にする管理職というのも重要である。さらに、教師、聖職者、医師やナースを含むセラピスト、セックス・ワーカー等々の職業では、身体的な意味でもクライアントに近接し、否が応でも自己を露呈させてしまう。言いたいのは、近しく人間に接する職業では常に人間関係の混同が生じ、「ストーカー」という事態が起こる可能性があるということだ。それも、仕事にビジネスライクを超えた〈人間性〉(さらに〈癒し〉とかいうもの)が求められれば求められるほど、そうした可能性は増大するだろう。その意味では、今回の宇治市の事件もその可能性が現実化したということである。なお、今回は偶々教師が加害者側だったが、可能性としては、生徒が加害者で教師が被害者ということもあり得る。
 今回の事件では、塾を巡って日本中がパニックになっている感もあるが、私が感じたのは、そのような一般的可能性に対する配慮の欠如である。そこを無視して、ことを容疑者の人格的特異性に還元したり、管理体制の不備を指弾したりしている。
 消費社会によって促進されているという面は当然あるとしても、社会関係の混同の可能性は常にあると思う。逆に、そのような〈混同〉の可能性が限りなく低い社会、それは〈官僚制〉が理念型的に貫徹している社会だといえるかも知れないが、そんな社会は想像するだけでも限りなくつまらない社会だといえるだろう。であるなら、求められるのは、〈混同〉の可能性を零にしたり隠蔽するのではなく、〈混同〉の可能性と如何にして折り合っていくのかということではないのか。
 作田先生に戻ると、

かつては(いつの時点であるかははっきり言えないが)人が是認を求める他者は主として親、教師、上司といった年長者であった。重要な他者はおおむね自分よりも年長の人たちであった。高度産業化が進行するにつれ、重要な他者は年長者から同年齢や年下の人々へと移ってゆく。今回の事件の場合は、個別指導という制度が手伝って12歳の女の子が彼にとって重要な他者となってしまった。彼女の是認がなければ、自分の存在全体が否定されてしまうかのように追いつめられていたのだ。
とも指摘されている。たしかにそうなのかもしれないが、「高度産業化」の「進行」と「重要な他者」の低年齢化という因果連関はいまいちよくわからない。