スタ(追記)

 承前*1

 これって、その場で自らを「中傷」したその店員に反論したりとか殴りかかったりとかという問題だと思うのだが、そうはできないからこそ、脅迫的書き込みに走ってしまった。ということは理解できる。私が不思議に思ったというか、わたしの注意を引いたのは、脅迫的書き込みの段階で、彼の攻撃対象が

 何月何日何時何分に私を接客して私を「中傷」した姓名不詳のあの店員

から「全店員」というふうに、提喩的に転換されているということである。岡野「容疑者」は、自らが受けたとされる「中傷」の責任をその特定の店員にではななく、集合体としての「スタバ」の店員或いはその体制に帰属したということなのだろうか。人種主義のロジックで、特定の彼/彼女が問題なのに、それが黒人、日本人、中国人etc.の問題にすり替えられ・拡大されるというのと同じ仕方で。
 また、岡野「容疑者」はインターネットを使っているわけだが、脅迫的書き込み以前に、掲示板とかMixiの日記とかに、あのスタバの店員、むかついたぜといった書き込みはしなかったんだな。自己の体験を物語化して書き・語ることによって、自己の過去から距離を取ることができる。つまり、私は〈スタバの店員に「中傷」された惨めで怒っている私〉からそのような私を〈お話〉として語る(ネタにする)私へと変容する。彼は物語を語るのではなく、そのまま無防備に生きてしまったということなのか。
 ただ、私を物語化し、公的に語るということは、仮令匿名であっても、私のプライヴァシーを晒すことであり、不特定多数の(可能性としては万人の)好き勝手な解釈を引き受けるということだ。もしかして、岡野「容疑者」、そのリスクと犯罪者になるというリスクを秤に掛けた、ということはないか。
 話は換喩的にずれるが、私のプライヴァシーが晒されるというとき、それは、私の〈内面〉が或いは私の〈裸体〉が晒されるということを、第一義的に意味するのではない。晒されるのは、まず私の社会的直接世界だろう。Mixiとかで、〈日常の愚痴〉的な日記を綴っている人は多いが、そういうのを読んでいて辛くなるのは、その人が直接的に関わった他者たち(家族とか友人とか)との立ち入った関係が晒されてしまうということだ。それなら読むなよと言われそうだし、自分でもそうは思ってはいるのだが、読みつつ、ついつい素人精神分析家になって、こいつマザコンだったのかとか呻ってしまう。日本の私小説なんかはそのようにして生産されてきたということかもしれないが、今これを書きつつ念頭に置いている人物も、もしかしたら私小説家として大成する可能性はないことはないかも知れない。それには、真っ当な日本語を書くという修行が不可欠だということは言うまでもないが。或いは、言葉の崩れを崩れのまま洗練させて、ヌーヴォー・ロマン風でいくという手もあるかも知れないけれど。