コミットメントは求められているけれど

NHKの報道;


経済的に厳しい家庭も保護者の関与で子どもの学力向上
2018年7月1日 6時41分


経済的に厳しい家庭でも、保護者が生活習慣に気を配り、本の読み聞かせなど知的好奇心を高める努力をすると、子どもの学力は高くなる傾向にあることが文部科学省などの調べでわかりました。

子どもたちの学力に家庭の経済力などがどのくらい影響するかを調べるため、文部科学省から委託を受けた研究チームは、去年の「全国学力テスト」に合わせて、およそ14万人の保護者にアンケート調査を実施しました。

その結果、親の年収や学歴が高い「上位層」の家庭の子どもの平均正答率は、すべての教科で年収や学歴が低い「下位層」の子どもを上回り、特に「算数B」では21ポイントの差がありました。

一方で、研究チームは「下位層」の中にも成績の高い子どもが一定数いたことからその背景を調べました。

すると、こうした家庭では毎日朝食をとるなど、子どもに規則的な生活を送らせたり、本の読み聞かせや新聞を読むよう勧めたりするなど、子どもの知的好奇心を高める努力をしていることがわかったということです。

研究チームのお茶の水女子大学の浜野隆教授は「経済的に制約がある中でも、規則的な生活習慣を整えて文字に親しむよう促すなど、親の働きかけが学力向上に影響しているのではないか」と話しています。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180701/k10011503031000.html

本来ならオリジナルの報告書を見てからコメントすべきなのだろうけど、まあ常識を再確認するような結果だといえるのではないだろうか。また、「全国学力テスト」がある度に似たような調査が行われ、似たような結果が出ているのだ*1。これらを含めて、まあだいたい言えることは、子どもの学業成績に重要な影響力を持つのは、保護者による子どもの教育へのコミットメントや家族内文化(ハイ・カルチャーへの接近)である。今回も、この線に沿った結論が出たというわけだ。でも、「毎日朝食をとる」というのは基本的なことで、子どもに朝飯を与えなかったらそれは虐待であり、子どもに朝飯を与えられない家庭には、教育以前に福祉的介入(援助)が必要だということになるんじゃないか。
思いついた問題点を幾つか述べると、先ずそもそも様々な経済力や知的能力を持った親がいるわけで、そのために、家族の教育力には格差が自然に存在するわけだ。公教育の意義のひとつはそのような格差の緩和であるといえるだろう。しかしながら、実際には公教育の達成は家族の教育力にかなり依存しているという逆説。また、図書館、美術館、博物館などの諸々の公的機関が「子どもの知的好奇心を高める」ようなイヴェントを開催しているわけだけど、金銭的な負担はそんな高いものではないにしても、こうした動きに関心を持ち、アンテナを張って、積極的に参加するのは、主に高学歴の〈意識高い〉系の親ということになるのだろう*2
ところで、息子が小学校に入ったばかりなのだけど、今の学校は親の教育へのコミットメントを昔よりもずっと求めているんじゃないかと思った。入学以来毎日やっているのは、子どもの宿題をチェックして確認のサインをすること。俺が小学生時代、親が宿題のチェックなんかしていなかったし、そもそも親に勉強を教えてもらったことも殆どなく、教育というのは基本的に学校に丸投げされていたんじゃないか。まあ、まだ1年生になったばかりなので、宿題といっても、毎日国語と算数のプリント1枚ずつ、詩の朗読、それから家で腕立て伏せとか縄跳びをする体育の宿題くらいで、分量としても大したことないとは思うのだけど、忙しくてやってられないよとか、面倒臭いと思う親もいるんだろうなとは思う。また、コミットメントへの要請が焦りに転化して、あらぬ方向へと暴走してしまうということもあるんだろうとは思う。東京都目黒区で5歳の妻の連れ子を虐待によって死に追い込んでしまった男も、そういうプレッシャーと焦りを感じていた筈なのだ*3

Asahara hung

朝日新聞』の記事;


松本智津夫死刑囚らの死刑執行 オウム真理教元代表
2018年7月6日09時06分


 法務省は6日、1995年3月の地下鉄サリン事件など計13事件で27人を死なせたとして有罪が確定した、オウム真理教元代表松本智津夫麻原彰晃)死刑囚(63)ら複数の教団元幹部の死刑を執行した。一連の事件では13人の元教団幹部の死刑が確定しており、執行は初めて。

 松本死刑囚の死刑は東京拘置所で執行された。2006年に死刑が確定しており*1、12年を経ての執行となった。

     ◇

 安倍晋三首相は6日午前10時前、参院本会議に出席するため首相官邸を出る際、記者団からオウム真理教元代表松本智津夫麻原彰晃)死刑囚らの死刑執行について問われたが、無言だった。
https://www.asahi.com/articles/ASL4S04M5L4RUTIL04W.html

See also
Natalie Evans “BREAKING Shoko Asahara, founder of Japanese doomsday cult Aum Shinrikyo, executed” https://www.mirror.co.uk/news/world-news/breaking-shoko-asahara-founder-japanese-12862101
Henry Austin “Doomsday cult leader Shoko Asahara executed for involvement in sarin attack on Tokyo subwayhttps://uk.news.yahoo.com/doomsday-cult-leader-shoko-asahara-000900206.html
Justin McCurry “Japan executes sarin gas attack cult leader Shoko Asahara and six members – reports” https://www.theguardian.com/world/2018/jul/06/japan-executes-sarin-gas-attack-cult-leader-shoko-asahara-and-six-members-reports


麻原彰晃の後半生の罪は、狂気*2と死へ逃亡することによって、その前半において自らがコミットしたオウム真理教の組織的所業の実態や詳細を闇に葬ってしまった、歴史に対する罪であるといえるだろう。歴史に対する誠実を発揮しようとしなかった、或いは不可能だった。重要なことは、司法も含む国家権力が麻原の狂気を否認することによって、そして「死刑執行」によって、麻原の最後の罪に決定的に加担してしまったということだろう。麻原は平成の終わりとともに急速に忘れ去られていくのだろうか、或いは〈平成の亡霊〉として顕在的・潜在的に猛威を振るい続けるのだろうか。

嵐の変容?

Hagex殺し*1を巡るエントリー。


在華坊*2「古来からのネット作法に総括を迫られているのかもしれない」http://zaikabou.hatenablog.com/entry/20180625/1529890030


この方も、「低能先生」の潜在的なターゲットである可能性が高かったらしい。
この中で、


ネット上でのヘイトスピーチ、様々な「問題ある表現」への対応を巡っては、昨今、各種議論が交わされていて、特に古式ゆかしいネット作法「荒らしは放置」の時代ではなくなっていることは、ある程度共有認識を得られてきたことなのではないかと思う。

荒らしは放置が今は通じなくなったの、個人的には「荒らしは相手に反応されたいから、反応しなければ消える」という点が、いまのSNSでは「荒らしは相手ではなく同じ荒らし同士でキャッキャしたいので反応しなくても勝手にエスカレートする」というふうにシフトしたからではないかと思うのだよな

— 春魔解丼 (@vespiking) June 19, 2018
https://twitter.com/vespiking/status/1008925992885239808

といわれている。そうなんだと肯きつつ、でも「低能先生」に当て嵌まるのかなとも思った。SNSと増田やブックマークは違うとはいっても、「低能先生」にお互いに「キャッキャ」しあう「同じ荒らし同士」のコミュニティが成立していたなら、リアルな包丁は必要なかったわけだ。
これとの関連で、


ニャート「誹謗中傷でしか他人とつながれない|匿名掲示板という「負のつながり」の場」http://nyaaat.hatenablog.com/entry/2018/06/26


というエントリーを読んだ。
ここでいう「Aさん」というのは「低能先生」のことである。


なぜ匿名掲示板で個人攻撃する人たちがいるのだろう、と考えると、Aさんのような人には、これだけのメリットがあるからだろう。


匿名で書ける
実名や半匿名で有名人などを攻撃すると、本人や「信者」から反撃されるが、匿名ならそれがない
実名や半匿名では、議論ができないと負けるが、匿名なら、論旨と無関係な属性(容姿など)を誹謗中傷するだけでよい
有名人は匿名掲示板など読まないが、それをよいことに「反論できない」と勝利宣言できる
同じような匿名の誹謗中傷を支持することで、一体感が生まれる
誹謗中傷や実力行使(自宅訪問など)が過激になるほど、支持される
最後の二つが重要である。


なぜ匿名掲示板での個人攻撃が過激化していくのかと言えば、そこに「承認」と「一体感」があるからだ。

誹謗中傷以外の「正のコミュニケーション」で承認と一体感を得るには、高い技術が必要である。

だが、誹謗中傷という「負のコミュニケーション」で承認と一体感を得るには、技術はいらない。

より過激になればいい。

その最たるものが、殺人なのかもしれない。

これも(最後を除いては)一般的には正しいのだろうけど、「低能先生」が主戦場としていたのはブックマークと増田であって、5ちゃんねるではない。増田はともかくとして、ブックマークというのは(ここの言い方で言えば)「実名や半匿名」の場だろう。「個人攻撃」の「過激化」の「最たるもの」として「殺人」が挙げられ、「低能先生」の結末が示唆されているのだけど、「個人攻撃」の「過激化」と「殺人」の間には相当に高い(棒高跳びしなければいけないような)ハードルが存在している。いくら「過激化」してもそれは「ネット弁慶」にすぎない。「低能先生」もそれを痛感していて、敢えて「卒業」して跳躍したわけだ。

お供した者ども

承前*1

吊るされたのは麻原だけではなかった。


オウム真理教の一連の事件で死刑が確定した13人のうち、元代表麻原彰晃、本名・松本智津夫死刑囚ら教団の元幹部7人に死刑が執行されました。

死刑が執行されたのはオウム真理教の代表だった松本智津夫死刑囚(63)のほか、いずれも元幹部の早川紀代秀死刑囚(68)、井上嘉浩死刑囚(48)、新実智光死刑囚(54)、土谷正実死刑囚(53)、中川智正死刑囚(55)、遠藤誠一死刑囚(58)の合わせて7人です。
(「オウム真理教 松本死刑囚ら7人に死刑執行」https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180706/k10011514211000.html

 

好循環は容易からず?

最近、遊佐未森さんの


今までもらった ぬくもりを
誰かに 返してゆく


Ah ちいさな 陽だまりになって
Ah 君にも わけてあげよう
Ah いつかは 陽だまりになって
Ah 君にも わけてあげよう
(「ショコラ」in 『銀河手帖』*1

という歌詞を引用しつつ、何か書こうと思っていたのだが、挿入すべき文脈を失している。こういう好循環とううのは容易いことじゃないというか、最近目立っている事件というのは、「ぬくもり」ではなく、「今までもらった」憎しみを「誰かに 返してゆく」という性格のものばかりだし。
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