鉄道と小説(原武史)

沿線風景 (講談社文庫)

沿線風景 (講談社文庫)

原武史*1『沿線風景』から。
神奈川県湯河原町の「西村京太郎記念館」*2が言及され、それを踏まえて曰く、


1958(昭和33)年に刊行された松本清張『点と線』*3あたりから、鉄道とつながる小説といえば推理小説になってしまった。その大成者が西村さん*4と言ってもよい。
けれども、2007年芥川賞を受賞した青山七恵『ひとり日和』*5河出書房新社、2007年、河出文庫、2010年)は、純文学であっても、なにげない都会の鉄道が重要な役割を果たし得ることを示した点で画期的であった。正確にいえば、漱石をはじめとする近代文学には鉄道がしばしば登場するから、その系譜を受け継いでいるという見方もできよう。(pp.106-107)
点と線 (新潮文庫)

点と線 (新潮文庫)

ひとり日和 (河出文庫)

ひとり日和 (河出文庫)

このテクストが最初に発表されたとき、まだ磯崎憲一郎電車道*6は出ていなかったか。
電車道 (新潮文庫)

電車道 (新潮文庫)

また別のステレオタイプ

藤代裕之*1「「おっぱい次官」「落ちませんおじさん」は、OS(昭和)のアップデートを怠った組織の被害者かもしれない」https://news.yahoo.co.jp/byline/fujisiro/20180526-00085648/


「おっぱい次官」というのは福田淳一*2のことで、「落ちませんおじさん」というのは日大の広報担当の米倉久邦氏*3のことだろう。まあ、ここに書かれていることは大雑把であるとばいえ、決して間違いではないのだけど、はっきり言って、つまらない。マスコミ人というのはクリシェとしての鍵言葉を幾つかそれらしくアレンジして作文することに長けた人種であるというステレオタイプを構築しそうになった。

「初学者」とは誰?

寺沢拓敬*1「地雷本を回避するには?(文献の探し方 Tips)」https://news.yahoo.co.jp/byline/terasawatakunori/20180611-00086352/



卒論を書くゼミ生に先行研究を探させていて、その関係で文献指導をする機会がありました。学生は、初めはなかなか「斬新」な本――要するに、入門書としてはお薦めしないクセの強い文献――を選んできます。これは初学者なので無理もないことですが、私が驚いたのは、自分自身が「なぜそれが斬新な選書なのか」を説明するのにけっこう頭をひねったことです。
「初学者」というのがどういう人を指すのかがわからなかったので、このテクスト全体の意味が掴み難かった。「初学者」=「卒論を書くゼミ生」ということでいいのだろうか。でも、私の語彙においては「卒論を書く」学生は「初学者」ではない。というか、「初学者」に「卒論」は書けないだろう。また、高校を卒業したばかりの1年生(関西風に言うと1回生)は何といったらいいのか。「初学者」以前? まあ、凄い大学者から見れば、どんな人でも「初学者」になってしまうのだろうけど。

大学の図書館に置いてある本には、博士論文を出版化したものがある。中にはほとんどそのままのものも。初学者にはなかなかハードルが高いので注意したほうが良い。博論本かどうかは、「はじめに」「謝辞」「あとがき」辺りに書いてあるのですぐわかる。
「初学者」=大学1年生ということであれば、「ハードルが高い」というのは当たり前だろう。でも、「卒論を書く」学生にとってはどうか。「博論本」を避けて「卒論」が書けるのかどうか。また、「参考文献案内としての有用性」或いは研究動向を知るための有用性においても、新しいか古いかという問題はあるものの、「博論本」は価値があると見込めるのでは? 博士論文では、そのテーマに関する先行研究の詳細なレヴューを含むことが期待されているわけだから。さらに、「博論本」は薦めないよといいながら、大学の「紀要」論文を薦めている。「博論本」を「ハードルが高い」と感じてしまう人にとっては、「紀要」論文の「ハードル」も高い筈だ。また、「博士論文」にせよ「紀要」論文にせよ、「初学者」に配慮して書くということはないでしょ。

群馬そして大阪

NHKの報道;


大阪で震度6弱地震 津波なし
2018年6月18日 11時08分


18日午前7時58分ごろ、大阪府北部を震源とする地震があり、大阪市北区、大阪・高槻市枚方市茨木市箕面市震度6弱の揺れを観測したほか、近畿地方の広い範囲で震度5強や5弱の揺れを観測しました。この地震による津波はありませんでした。

震度6弱の揺れを観測したのは大阪北区、高槻市枚方市茨木市箕面市でした。

また、震度5強京都市の中京区、伏見区西京区京都府亀岡市長岡京市八幡市大山崎町久御山町、大阪の都島区東淀川区、それに旭区、淀川区、それに大阪府豊中市吹田市寝屋川市摂津市、交野市、島本町でした。

さらに震度5弱が滋賀県大津市京都府宇治市城陽市向日市京田辺市南丹市井手町精華町、大阪の福島区此花区、港区、西淀川区生野区池田市守口市大東市四條畷市豊能町能勢町兵庫県尼崎市、西宮市、伊丹市川西市奈良県大和郡山市、御所市、高取町、広陵町でした。

このほか、近畿、東海、四国、中国地方の各地で震度4や3の揺れを観測し関東や九州でも震度2や1の揺れを観測しました。

気象庁の観測によりますと、震源地は大阪府北部で震源の深さは13キロ、地震の規模を示すマグニチュードは6.1と推定されています。

気象庁によりますと大阪府内で震度6弱の揺れを観測したのは大正12年に統計を取り始めてから初めてだということです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180618/k10011482351000.html

また、17日の報道;

群馬 渋川で震度5津波なし
2018年6月17日 17時00分


17日午後3時27分ごろ、群馬県震度5弱の揺れを観測する地震がありました。この地震による津波はありませんでした。

震度5弱を観測したのは群馬県渋川市で、震度4はいずれも群馬県前橋市桐生市、伊勢崎市、沼田市吉岡町東吾妻町でした。

震度3を茨城県取手市群馬県高崎市、栃木県佐野市、千葉県野田市さいたま市北区などで観測しました。

このほか震度2や1の揺れを関東甲信越の広い範囲や福島県の各地で観測しました。

気象庁の観測によりますと、震源地は群馬県南部で、震源の深さは14キロ、地震の規模を示すマグニチュードは4.6と推定されています。


群馬県内で震度5弱は平成26年以来
気象庁によりますと、群馬県内で震度5弱の揺れを観測したのは、4年前の平成26年9月16日に茨城県南部を震源とするマグニチュード5.6の地震前橋市や伊勢崎市などで観測して以来です。


震源群馬県内で震度5弱は初
気象庁によりますと、群馬県内を震源とする地震震度5弱以上の揺れを観測したのは、大正12年に統計を取り始めてから初めてだということです。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180617/k10011481631000.html

Aggretsuko

「サンリオの異端キャラ“アグレッシブ烈子”が海外で大人気 その訳をサンリオ広報に聞いた」https://www.oricon.co.jp/special/51257/


曰く、


2015年秋に開催された『サンリオキャラリーマン総選挙』8位入賞でデビューしたアグレッシブ烈子。アニメでは、丸の内の一流商社でOLとして働く25歳独身のレッサーパンダの烈子が、上司や同僚の理不尽な行動に不満を募らせるもその場では何も言えず、イライラが頂点に達するとカラオケや妄想でデスメタルを歌い、ストレスを発散するという姿が描かれる。等身大のOLを描いたことで、20〜30代女性の人気を獲得。2016年4月〜2018年3月に『王様のブランチ』内でショートアニメを放送、さらに2018年4月20日よりNetflixオリジナルアニメを世界190カ国以上に配信している。アニメは『やわらか戦車』などで知られるラレコ監督とファンワークス制作によるものだ。

 3位に“YOSHIKITTY”がランクインし話題となった『2018年サンリオキャラクター大賞』の中間発表では、国内での順位は10位圏外となったが、国外ではアメリカ3位、ブラジル1位、イギリス1位、イタリア2位、ドイツ2位、フランス2位、アラブ首長国連邦2位と軒並み上位を獲得。その結果を受けTwitter上では、「東アジア以外での謎のアグレッシブ烈子人気」「アグレッシブ烈子って何者なんだ…地味に海外人気が結構あるのだが」などと、日本のサンリオファンがザワついている。


アニメでは普段は大人しくゆるふわタッチで描かれる烈子が、キレるとデスメタル調の作画になって人格が豹変するメリハリの効いた演出も面白い。監督のラレコが担当するデスボイスインパクト大で、「部下に仕事 丸投げ 定時退勤 クソ上司」という歌詞など、今までのサンリオキャラクターにない尖りまくった表現で働く女性たちから大きな共感を得ている。デスメタルでスッキリしたあとの決め台詞は「明日もがんばれっさー!!」。切り替え上手な烈子に自分を投影し、明日の仕事への活力にしている女性も多いのかもしれない。

 また“Aggretsuko”の動画を見た海外の反応を見ると、「20代前半の頃のオフィスでの日常を思い出したわ」「本当に私の様だ」「私もデスメタルのカラオケで怒りを発散したいわ」など共感の声が相次いでいる。アニメに描かれるような仕事への不満や苦痛は万国共通であるのだ。また、サンリオの代名詞でもあるハローキティ*1は女の子たちの“幻想”を描いているのに対して、アグレッシブ烈子は女性たちの“現実”を描くことで、全く違った視点から世界中の女性たちの支持を集めているのも興味深い。

「欠如の論理」

木田元ハイデガーを読む」(in 『木田元の最終講義 反哲学としての哲学』、pp.9-61)*1から。


むろん私も最初は、『存在と時間』を実存哲学の書として読み、そこにわが身一つをいかにすべきかの答えを求めようとしていていました。当時はこれがこの本の普通の読み方で、私もそうした読み方をしていたことになります。
しかし、そんなつもりで読むと、この本にはいささか期待を裏切られます。そうしたことなら、キルケゴールの方がずっと切実なのです。それに比べると『存在と時間』にはどこか形式的なところがあります。それに、論理が違うのです。キルケゴールはつねに「あれかこれか」という決断を迫ってくるところがありますが、『存在と時間』を貫いているのは、ハイデガーアリストテレスから学んだ「欠如の論理」なのです。これは、たとえば目の見える人のグループと目の見えない人のグループがあるばあい、それを相互外在的な二つのグループとして捉えるではなく、目の見えない人は、もともと目が見えるからこそ見えなくなりうるのだと考え、目の見えない人のグループを、目の見える人のグループの一部として、つまりその欠如部分として捉えるのです。ハイデガーはすべてをこの粉の論理で処理します。つまり、人間はもともと本来的に生きることができるからこそ非本来的にもなりうる、と考えるのです。非本来的な生き方をしている人たちは、本来的に生きている人たちの一部として、その欠如部分として捉えられ、非本来性は本来性のヴァリエーションにすぎないことになりす。こういう考え方には、キルケゴールの「あれかこれか」のような切羽つまったところがありません。実存的な思索を求めるなら、キルケゴールの方が遥かに適切に答えてくれそうなのです。(pp.29-30)
存在と時間 下 (岩波文庫 青 651-3)

存在と時間 下 (岩波文庫 青 651-3)

これに関連して、「欠性対立(privative opposition)」については、例えば


上野千鶴子ジェンダー概念の意義と効果」『学術の動向』2006年11月号(http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200611/0611_2834.pdf


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