誰のことか

2004年のエントリーだが、


マッチョな男が完全に廃れた80年代から各分野に棲息していた文系男子の、理想の最終形態の一つがフリッパーズ・ギター小沢健二小山田圭吾だった。

こういうタイプの男の子は、アートや音楽や文学周辺に昔はよくいたような気がする。小生意気で弱虫で攻撃的でナルシスト。アートや文学に秀でているかどうかは知らないが、見聞きしたのをあれこれ喋り散らかす事には人一倍秀でていた男の子達。

一つの分野だけに詳しいオタクではダメで、各分野のマニアックなポイントを押さえることを競い合っていた。情報感度と情報量が勝負なのであった。
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20040911/1195965215

これを読んで、どきっとした。だって、ここに書かれていることって、そのまんま俺のことだもの。「昔」(1990年代前半)どころか、今でもそうだけれど。前後の文脈を無視すれば、大野さん、会ったこともないのに、何故俺のことを見抜いているの? という感じになる。
ただ、「フリッパーズ・ギター」についてはあまり知らない。というか、1990年代前半というのは(以前書いたかも知れないが)殆ど音楽を聴いていなかった時期なのだ。アナログ・プレイヤーの針が磨り減ったけれど、針は見つからず、それにこの時代、アナログのアルバムも既に店頭から消えていた。結局、CDプレイヤーを買ったのは1994年。
ところで、以前、内田樹氏が文体と音楽を比べていて、吉本隆明はブルースで、廣松渉ヘヴィ・メタルだとか書いていたのだが、それだったら、蓮實重彦は「渋谷系」かよと思いついたことがあった。

Gruziya/Georgia

『読売』の記事;


グルジアやめてジョージアに」…ロシア語読みはイヤ!と
3月21日15時1分配信 読売新聞


 グルジア政府が、日本語による同国の国名表記を英語表記(Georgia)に基づく「ジョージア」に変更するよう求めていることがわかった。

 外務省は、「米国のジョージア州と混同しかねないなど問題はあるが、真剣な訴えなので前向きに検討したい」(幹部)としている。

 グルジアの国名はグルジア語でサカルトベロ。今月10日に行われた日・グルジア外相会談の際、ワシャゼ外相が中曽根外相に、「“グルジア”はロシア語表記に基づくので変えて欲しい」と訴えたという。グルジアは、ロシアとの間に紛争を抱えるなど、反露感情が根強いことが今回の要求の背景にあるようだ。

 政府の公式文書などでの国名表記は、在外公館名称・位置・外務公務員給与法の表記を基準にしており、変更には法改正が必要だ。過去には「ヴィエトナム」を一般的な表記である「ベトナム」にしたり、国名変更により「ビルマ」を「ミャンマー」とした例はある。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090321-00000531-yom-int

そういえば、最初に「グルジア」で内戦が起こった頃、Financial TimesとかThe Independentとかを見ていたら、Georgiaという見出しが躍っていて、一瞬アトランタで何かあったのかと思ったが、暫くして「グルジア」のことだと気付いたことがあった。
因みに、Georgeはギリシア語に遡り、そもそもはfarmer、農民の意。英和辞典でGeorgeの項を引いてみると、動詞としての意味が載っているのだが、どうしてそんな意味が出てくるの? とは思う。

マンソンお目見え

四国新聞』の記事(共同通信配信);


米、元カルト指導者の近影公開/C・マンソン受刑者
2009/03/20 12:39


 
 【ロサンゼルス19日共同】米カリフォルニア州当局は18日、1969年に女優が惨殺された「シャロン・テート事件」などを起こした米カルト教団の元指導者で、殺人罪終身刑で服役中のチャールズ・マンソン受刑者(74)の近影を米メディアに公開した。

 公開されたのは、みけんにナチス・ドイツのシンボル「かぎ十字」のマークを入れたマンソン受刑者の顔写真。州当局が18日に受刑者の情報を更新した際に撮影された。

 シャロン・テート事件は、ロサンゼルスの高級住宅地で映画監督ロマン・ポランスキー氏の当時の妻テートさんら5人が惨殺され、マンソン受刑者や教団メンバーの犯行と判明した。マンソン受刑者は71年に死刑判決を受けたが、カリフォルニア州が死刑を一時廃止したため終身刑になった。
http://news.shikoku-np.co.jp/national/international/200903/20090320000205.htm

74歳になったんだ。
ところで、CharlieManson.Comというファン・サイト(?)あり*1

上海に来ていた

「上海万博へ向け日本館の起工式」『Bizpresso』2009年3月10日


2月27日に、上海万博「日本館」の起工式があり、福田康夫元首相が出席した。「日本館」の敷地面積は6000平米、建築面積は3900平米。
地元メディアの報道も見なかったし、麻生太郎が既に危なく、また小沢一郎も危なくなって忙しい日本のメディアでも報道を見なかったので、今頃になって気付く。

「エホバの証人」を巡ってちょっとランダムに

八幡宮」をsectと呼ぶのはどうよということを書いたのだが*1、「エホバ*2の証人」をセクトと呼ぶのは通例といえるだろう。
エホバの証人と輸血の話」と題するエントリー*3で鰤さんが「エホバの証人」の「輸血」を巡る教義の変遷に言及している。また、「輸血」禁止の教義について、聖書解釈のレヴェルで「エホバの証人」の見解を批判している。曰く、「そもそも聖書筆者には輸血などという概念はなかったのだから、むしろ聖書は輸血に関して何もいっていないという解釈の方が素直なのではないだろうか?」。
ところで、鰤さんは「エホバの証人の教義がやたらめったら変更されることは、エホウォッチャーの間では有名な話で、一般的にも知られているのはハルマゲドン予想の変更だろう」。ただ、世俗社会の動向に合わせて教義が変更されるというのは、特に新宗教ではそう珍しくない話だろうとは思う。身近なところでは、1960年代以降の創価学会における「国立戒壇」論の変容とか。因みに、宗門(大石寺)との断絶以降の創価学会の教義の変容に関しては、取り敢えず、


西山茂「変貌する創価学会の今昔」『世界』2004年6月号、pp.170-181*4


をマークしておく。
さて、「エホバの証人」に関して、「エホバの証人」信者を両親に持つ、「消化管内の大量出血で重体となった1歳男児*5の両親の「親権」を一時的に停止して、「輸血」が行われたことが話題になっている*6
エホバの証人」と「輸血」問題に関しては、土屋恵一郎『正義論/自由論』で論じられているのだが(「正義論」第2章「「他者」の学習」)、その中で歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』を参照しつつ、「私たちが、たとえば歌舞伎の舞台の上で、親の忠義のために殺される子供の芝居を見て感動している一方で、親の信仰のために死んでいく子供については、けっしてこうした感動につながらないのはなぜなのか」(p.182)と自問されている箇所をマークしておく。土屋氏はここで「エホバの証人」に関しては、大泉実成氏のテクストに依拠しているのだが、大泉氏の『説得』は「エホバの証人」と「輸血」問題に関して、今でも重要なテクストであるといえる。

正義論/自由論―寛容の時代へ (岩波現代文庫)

正義論/自由論―寛容の時代へ (岩波現代文庫)

説得―エホバの証人と輸血拒否事件 (講談社文庫)

説得―エホバの証人と輸血拒否事件 (講談社文庫)

今回の「親権停止」事件だが、「輸血」されたのが「1歳男児」であるし、報道を読む限りでは「輸血」が医学的に不可避であったようなので、医療ティームの側が「輸血」を強行したことについては支持できると思う。ただ、「親権停止」という司法による介入が必要だったかどうか。現在の「エホバの証人」側の解釈によれば、「信者の意思に反して強制輸血された場合でも、それは信者の意思を無視しているので、信者の意思と動機においては、けっして信仰を破ったことにならない」(土屋、p.205)。つまり、粛々と強行しても問題はなかったのだ。或いは、司法による介入は宜しくない前例を作ってしまったといえるかも知れない。今回のことがひとつの判例となって、「エホバの証人」の子どもが患者である場合、一時的に「親権停止」を行うということが恒例になってしまったら、どうなのか。デリダ(『法の力』その他)を俟つまでもなく*7、自動的・機械的に適用される(当事者に思考を要請しない)法というのは「正義」とは無関係なのだ。それは問題に対するフレクシブルな対応を妨げるだけでなく、実は(テクノロジーとしての)医療の発展にとってもマイナスになるだろう。「輸血」は駄目という「エホバの証人」は医学的にはトンデモに属するだろう。しかし、信仰の自由・良心の自由というリベラリズムの原則と医療の実践を摺り合わせるために、「無輸血手術」が技術的に発展・成熟してきたということはないのか。もしそうだとすれば、「エホバの証人」はそのトンデモな横槍によって、医療の発展に寄与してきたといえないか。トンデモな横槍に対する対応がテクノロジー発展の梃子になるというのは、そう珍しくない話なのだろう。クール宅急便が始まったのは、生魚を宅急便で送って腐ったからどうにかしろという馬鹿野郎のクレームをきっかけとしてだった。
法の力 (叢書・ウニベルシタス)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

勿論、医療関係者が「エホバの証人」に屈服しなければいけないと言っているわけではない。要は、技術的可能性その他を綜合的に勘案して、ケース・バイ・ケースで対応することなのだ。逆に、「エホバの証人」側にもケース・バイ・ケースでの対応を要請する権利は医療関係者にある。土屋氏は「カズイスティック」(決疑論→「ケース」=「場合と条件の学問」[p.206])について、

神学と法律学が、ケース(場合・条件)のなかに生きる人間たちのことを考えざるをえないのは、人間の現実の方が、聖書や法律よりも複雑であるからだ。複雑な現実を無視して、聖書と法律の言葉を徹底させようとすれば、人間の生きる道はなくなる。神のカリタスがなければ、人間は生きてはいけない。(p.210)
と述べている。
さて、「エホバの証人」を「カルト」と呼ぶ人もいるが、「エホバの証人」は「カルト」と呼ばれる多くの集団のような世俗社会への攻撃性はない。この人たちが拒否しているのは〈この世〉的なものへのコミットメントであるから。日本では、「エホバの証人」といえば、「灯台社」による徴兵拒否運動が有名であるが、これも平和主義のような世俗的イデオロギーによるのではなく、戦争という〈この世〉的なものへのコミットメントの拒否によるもの。同様に、たしか、選挙への参加や公務員になることも禁止している筈。とはいっても、世界的にも、「良心的兵役拒否」の権利の確立に対する「エホバの証人」の(意図せざる)貢献は大きいといえるだろう*8。また、「ハルマゲドン」を強調するが、「エホバの証人」にとって「ハルマゲドン」は完全に神の業であり、人間はただ見物するしかないのである(だから、「証人」)。
明石順三と灯台社について、鰤さんは稲垣真美『兵役を拒否した日本人』を紹介されているのだが*9、それに加えて、小池健治、西川重則、村上重良編『宗教弾圧を語る』も紹介しておきます。こちらも絶版ですが。
宗教弾圧を語る (岩波新書 黄版 61)

宗教弾圧を語る (岩波新書 黄版 61)

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070624/1182695677

訂正:
うろ覚えで書いてしまったのですが、『宗教弾圧を語る』で採り上げられているのは、灯台社ではなく、「ホーリネス教団」です。
現在の教団のサイトはhttp://www.jhc.or.jp/home/index.php