大竹文雄「所得格差の実態と認識」http://econon.cun.jp/abef/doc/2007projno2_ohtake.pdf
この中で、米国のPEWが行った国際調査が紹介されている(pp.4-5)。「ヴォータン」という方の要約*1から引用すれば、
PEW研究センターと言う米国の調査機関が2007年に各国で意識調査をしている。 日本では49%しか、この質問に賛成していない。
米国 70%
カナダ 71%
スウェーデン 71%
イギリス 72%
韓国 72%
イタリア 73%
中国 75%
スペイン 67%
ドイツ 65%
フランス 56%
ロシア 53%
主要国の中では日本人の市場経済に対する信頼感の低さは際立っている。
では、日本人は政府に頼っているのだろうか。
同じ調査で、
「自立できない非常に貧しい人たちの面倒を見るのは国の責任である」
という考え方に賛成するか否かを尋ねている。
日本ではこの考え方に賛成しているのは59%である。この数字も国政的には際立って低い。
ほとんどの国で80%以上の人が、貧しい人の面倒を見るのは国の責任だ、と考えている。
カナダ 81%
フランス 83%
イタリア、スウェーデン、ロシア 86%
韓国 87%
中国 90%
イギリス 91%
ドイツ 92%
スペイン 92%
国の役割に否定的だと考えられる米国でも、70%の人が貧しい人たちの面倒を見るのは国の責務だと考えている。
http://wotan.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-d8c7.html
日本において「
市場経済」への信頼も
社会保障への期待も低い理由として、元ネタの大竹氏も含めて、日本人の「共同体」指向を挙げている人が多いようだ。例えば、Baatarism氏;
日本の歴史的共同体と言えば、室町時代から戦国時代にかけて形成され、江戸時代に定着した「村(ムラ)」ということになるのでしょうが、「百姓から見た戦国大名」によると、この村というのは戦国時代には近隣の村と生存に必要な資源(土地、水、山など)を巡って武力で争っており、時には戦国大名に従って遠くまで従軍して略奪をしていました。江戸時代になって上から武装を禁じられたのと、生産力が上がって飢餓状態から脱した結果、武装はしなくなっていきましたが、それでも武装していた時代と同様、自立した存在として村民を協力に組織・統制していたのでしょう。そして、村民一人一人は直接領主(戦国大名や藩、幕府など)や市場と繋がっていたのではなく、村を通して繋がっていたのだと思います。
http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20090316/1237175990
そのため、時代が下っても、個人が直接国家や市場と繋がっているという意識は希薄で、村や会社といった共同体を通じて繋がっていると感じていたのではないでしょうか?そうなると、人々の生活を保証するのも国家や市場ではなく共同体ということになりますから、「市場経済によって人々の生活がよくなる」とか「国が貧しい人の面倒を見る」という考え方には怪しさを感じてしまうのでしょう。
ここでいう「共同体」を所謂「中間団体」
*2だとすると、近代社会における代表的な中間団体である
労働組合への参加率が日本において減少しており、個人は(丸裸で)「直接国家や市場と繋が」らざるを得なくなっているという状況があるわけだが。
またひとつ疑問を呈すると、「共同体」指向によっては、西班牙や伊太利といったヨーロッパの
カトリック圏(ラテン系)の国と日本との差異は説明できないのではないか。地中海社会(またラテン系の人々が移民した先のラテン・
アメリカ)
*3では、個人は〈
パトロン−クライアント関係〉によって、「直接」ではなく特定の
パトロン「を通じて」「国家や市場と繋がっている」傾向が強い。さらに、
カトリック圏では(西班牙語でいう)コンパラドスゴ関係
*4が重要であろう。個人とその名付け親との間には、血縁関係はないにも拘わらず、
インセスト・タブーが成立する。はっきりしたことは言えないのだが、現代の日本人の価値観を説明するためには、「共同体」以外の理屈を探すべきだろう。
ところで、欧米(或いは近代化)を巡る議論におけるゲルマン/
プロテスタント中心主義というのはやはり問題だな。故
阿部謹也先生
*5の議論(例えば『「世間」とは何か』、『学問と「世間」』、『日本人の歴史意識』)が「世間」を巡って援用されることが多いけれど、阿部先生も独逸史専攻の方だったし。