英語/中国語(メモ)

http://tieba.baidu.com/f?kz=144279889


広州及び上海におけるPidgin Englishの生成と広東語や上海語への(からの)影響。そこにおいて重要だったことのひとつは、音としての英語に遭遇した際に、日本において耳に入ってくる英語を如何にして仮名に定着させるかが問題だったように、中国では如何にして漢字に定着させるのかが問題だった。
なお、ピジン・イングリッシュは、中国語では洋除_浜。これは上海の現在の延安東路の位置を流れていた川の名前。英国租界と仏蘭西租界の境界を為していた*1。また、Pidginの発音がpigeonに似ているため、「鴿子英語」とも呼ばれた。

勉強すべきことは沢山ある(アレント、アリストテレスなど)

http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20090308/1236477812


アレントの“The Crisis in Culture”における「フロネーシス」についての議論。また、『カント政治哲学講義』の編者ロナルド・ベイナーの解説「ハンナ・アーレントの判断作用」を引きつつ、「彼女はカントをアリストテレス的に読みかえたのだ、と思われる」。また、「ペリクレスが称讃されるのは、自分一個人の利害や功名心を離れて政治を指導したと伝えられることによるのであって、アーレントの言う「没利害性」とは、アリストテレス的に言えば「自分を含む全体にとって最善を目ざす」とほぼ同義であろう」。アレントのいう「偏らないこと(impartiality)」については、同じ『過去と未来の間』に収録されている「歴史の概念(The Concept of History)」を参照されることをお奨めする。多分、それは世界か魂(自己)かという問題と関わっている。広坂さんが引用した“The Crisis in Culture”のパッセージの(原書では)次の頁に、カント的な「趣味判断」に関連して、


The activity of taste decides how this world, independent of its utility and our vital interest in it, is to look and sound, what men will see and what they will hear in it. Taste judges the world in its appearance and in its worldliness; its interest in the world is purely “disinterested,” and that means that neither the life interests of the individual nor the moral interests of the self are involved here. For judgment of taste, the world is the primary thing, not man, neither man’s life nor his self.(p.219)
と述べられている。
Between Past and Future (Penguin Classics)

Between Past and Future (Penguin Classics)

過去と未来の間――政治思想への8試論

過去と未来の間――政治思想への8試論

カント政治哲学の講義 (叢書・ウニベルシタス)

カント政治哲学の講義 (叢書・ウニベルシタス)

さて、

アリストテレスにとって倫理学政治学は一体のものであるが、カントにとってはそうではない(「相互に緊張関係にある」)。これは和辻哲郎も指摘していたことである。

アーレントのように、カントにアリストテレス的な知慮、ポリスにおける市民の徳を読み込むには、道徳と政治の関係についての、カントとアリストテレスの見解の差異を無視しなければならない。

和辻もまた『人間の学としての倫理学』で「カントの道徳哲学がその最も深い内容において我々の意味の「人間学」となっていることを主張」し、カント倫理学アリストテレス的契機を読み込もうとしていた。和辻は自らの見解に近い側面を「深い」と言い、政治学(国家学)に包摂しきれない側面を「表面に現れた限りにおいては「主観的道徳意識の学」と見られ得る」とするが、「深い」に対比してつかわれる「表面」という言葉は、価値の高下を含意している。

はたしてどちらが深いか、表面的かということは、容易に決めがたいように思われる。

和辻哲郎が関わってくるか。勉強すべきことは沢山ありすぎる。ところで、アレントは現れ(appearance)の思想家、或る意味で「深い」ことを拒絶した思想家であるということは申し上げておかなければならない。また、ここでも上で挙げた世界か魂かという問題が関わってくるように思える。


http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20090313/1236914741


ハイデガーアリストテレス講義を引いて、(ハイデガーがいう)


「「いまだない」と「すでに」のそれぞれを、自らの一面を特定の仕方で顕在化させたものとして併せ持つようなひとつの根源的な所与性」というのはベルクソンなら「現在」あるいは具体的な持続と言ったものであるようだし、そうしてみると、思慮とは「生活の注意」(生への注意)のように見えてくる。こんなことを言うと、深遠なハイデガーおフランス思想と比較するなとハイデゲリアンに叱られるかも知れないが、軽薄なベルクソニアンとしてはそう感じた。
そういえば、ハンナおばさんの論集もBetween Past and Future。さて、ハイデガーの師匠であるフッサールが例えば「内的時間意識」を考えたときにはベルクソンを意識しなかった筈はないのだろうと思います。また、アルフレート・シュッツは先ずベルクソンにはまって、その後フッサールに触れたので、「生への注意」を「志向性」に重ね合わせているような感じもいたします(例えば、「多元的現実について」)。
内的時間意識の現象学

内的時間意識の現象学

Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)

Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)

0.26

承前*1


昨年『産経』が対馬の土地が韓国資本に買い漁られているという排外主義的なキャンペーンを張った。3Kがキャンペーンを張った時期には既に円高によって日本への(韓国人も含む)外国人観光客自体が激減していたわけだが *2
それに関して、金子秀敏氏のコラムから;


東京新聞の「こちら特報部」(3月13日付)によると、韓国人が買った土地は対馬の0・26%にすぎない。いまや円高で「韓国マネー引き潮」だ、韓国人観光客が半減して地元は困っている。済州島では日本の投資は大歓迎らしい。
http://mainichi.jp/select/opinion/kaneko/news/20090319dde012070011000c.html

共同体の問題?

大竹文雄「所得格差の実態と認識」http://econon.cun.jp/abef/doc/2007projno2_ohtake.pdf


この中で、米国のPEWが行った国際調査が紹介されている(pp.4-5)。「ヴォータン」という方の要約*1から引用すれば、


PEW研究センターと言う米国の調査機関が2007年に各国で意識調査をしている。

 日本では49%しか、この質問に賛成していない。

米国 70%

カナダ 71%

スウェーデン 71%

イギリス 72%

韓国 72%

イタリア 73%

中国 75%

スペイン 67%

ドイツ 65%

フランス 56%

ロシア 53%

主要国の中では日本人の市場経済に対する信頼感の低さは際立っている。

では、日本人は政府に頼っているのだろうか。

同じ調査で、

「自立できない非常に貧しい人たちの面倒を見るのは国の責任である」

という考え方に賛成するか否かを尋ねている。

 日本ではこの考え方に賛成しているのは59%である。この数字も国政的には際立って低い。

ほとんどの国で80%以上の人が、貧しい人の面倒を見るのは国の責任だ、と考えている。

カナダ 81%

フランス 83%

イタリア、スウェーデン、ロシア 86%

韓国 87%

中国 90%

イギリス 91%

ドイツ 92%

スペイン 92%

国の役割に否定的だと考えられる米国でも、70%の人が貧しい人たちの面倒を見るのは国の責務だと考えている。
http://wotan.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-d8c7.html

日本において「市場経済」への信頼も社会保障への期待も低い理由として、元ネタの大竹氏も含めて、日本人の「共同体」指向を挙げている人が多いようだ。例えば、Baatarism氏;

日本の歴史的共同体と言えば、室町時代から戦国時代にかけて形成され、江戸時代に定着した「村(ムラ)」ということになるのでしょうが、「百姓から見た戦国大名」によると、この村というのは戦国時代には近隣の村と生存に必要な資源(土地、水、山など)を巡って武力で争っており、時には戦国大名に従って遠くまで従軍して略奪をしていました。江戸時代になって上から武装を禁じられたのと、生産力が上がって飢餓状態から脱した結果、武装はしなくなっていきましたが、それでも武装していた時代と同様、自立した存在として村民を協力に組織・統制していたのでしょう。そして、村民一人一人は直接領主(戦国大名や藩、幕府など)や市場と繋がっていたのではなく、村を通して繋がっていたのだと思います。
http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20090316/1237175990

そのため、時代が下っても、個人が直接国家や市場と繋がっているという意識は希薄で、村や会社といった共同体を通じて繋がっていると感じていたのではないでしょうか?

そうなると、人々の生活を保証するのも国家や市場ではなく共同体ということになりますから、「市場経済によって人々の生活がよくなる」とか「国が貧しい人の面倒を見る」という考え方には怪しさを感じてしまうのでしょう。

ここでいう「共同体」を所謂「中間団体」*2だとすると、近代社会における代表的な中間団体である労働組合への参加率が日本において減少しており、個人は(丸裸で)「直接国家や市場と繋が」らざるを得なくなっているという状況があるわけだが。
またひとつ疑問を呈すると、「共同体」指向によっては、西班牙や伊太利といったヨーロッパのカトリック圏(ラテン系)の国と日本との差異は説明できないのではないか。地中海社会(またラテン系の人々が移民した先のラテン・アメリカ)*3では、個人は〈パトロン−クライアント関係〉によって、「直接」ではなく特定のパトロン「を通じて」「国家や市場と繋がっている」傾向が強い。さらに、カトリック圏では(西班牙語でいう)コンパラドスゴ関係*4が重要であろう。個人とその名付け親との間には、血縁関係はないにも拘わらず、インセスト・タブーが成立する。はっきりしたことは言えないのだが、現代の日本人の価値観を説明するためには、「共同体」以外の理屈を探すべきだろう。
ところで、欧米(或いは近代化)を巡る議論におけるゲルマン/プロテスタント中心主義というのはやはり問題だな。故阿部謹也先生*5の議論(例えば『「世間」とは何か』、『学問と「世間」』、『日本人の歴史意識』)が「世間」を巡って援用されることが多いけれど、阿部先生も独逸史専攻の方だったし。
「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

学問と「世間」 (岩波新書)

学問と「世間」 (岩波新書)

日本人の歴史意識―「世間」という視角から (岩波新書)

日本人の歴史意識―「世間」という視角から (岩波新書)