躾の問題?

1970年代に大貫妙子さんがスパゲティをずるずると音を出して食べていたら坂本龍一に注意されたというエピソードを知って*1、時代の流れのようなものを感じたのだった。1970年代には大貫さんでさえずるずると啜っていたのか! この感慨は、21世紀或いは令和の時代にはスパゲティをずるずる啜る奴はいないよねということを前提としていた。しかし――


安東徳子「「コース料理を初めて食べた」というカップルが9割…婚礼業界で常識化する「残酷すぎる経験格差」の実態」https://president.jp/articles/-/69904


曰く、


昨年、あるホテルのブライダルフェアで行われたフレンチの試食会でのことです。この日は8組のカップルが参加していました。

コース料理1品目のオードブルに続き、2品目のスープがテーブルに置かれました。白地にゴールドの模様で縁取られたボーンチャイナのスープ皿は、古くから多くのホテルやレストランで愛用されてきたテーブルウエアブランドのもの。注がれているのは透き通った琥珀色のコンソメスープ。王室御用達といわれるフランスのカトラリーブランド・クリストフルのシルバーウエアも並んでいます。

「当店では牛スネ肉や玉ねぎなどの厳選された材料を時間をかけてじっくり煮込み、丁寧にアクを取っていきます」。シェフの説明が終わり、カップルたちがスプーンを手に取り始めたのと同じタイミングでした。

部屋の中ほどの席に座っていたカップルの新郎が、おもむろに両手でスープ皿を持ち上げ、直接口をつけてズズっと音を立てて、スープを飲み始めたのです。周りを気にすることもなく、ゆっくりとスープを飲む干す姿はとても堂々としていました。


さらにびっくりしたのは、その後でした。向かい合って座っていた新婦も同じようにスープ皿を持ち上げて、口をつけて飲み始めたのです。まるで新郎を見て「そうやって飲めばいいのね」と納得したかのような表情でした。

2人は20代後半ぐらい。新郎はチェックのネルシャツにデニム、リュックというラフな服装でしたが、新婦はカジュアルとはいえキレイ目なパステルカラーのブラウスにフレアスカートというきちんと感のある服装だったので、余計に驚きました。

私は「見てはいけないものを見てしまった……」というような気持ちでしたが、衝撃的だったのはまわりのカップルは驚いている様子ではなかったことです。その後、ホテルのスタッフにも2人の話をしたのですが、あまり気にかけていないことにさらに驚きました。


今、披露宴を行うのは30代から40代前半のカップルが中心です。それ以上の40代後半以降の世代はテーブルマナーに自信がなければ、「恥をかきたくない」と知識を得ようとする方が多かったように思います。そうしたマナーを面倒だと感じる一方で、「非日常」「特別感」を楽しんでいる面もあったはずです。

しかし、最近はテーブルマナーを敬遠しているというより、そもそもテーブルマナーに関心がない、もしくはテーブルマナーの存在すら知らないのではないかと思うような方が増えています。


広がっているのは、経済格差が生む、かつては当たり前だったことをできなくなっている「経験の格差」だと私は考えています。

2015年頃からでしょうか、ブライダルの試食会に参加したカップルから「コース料理を初めて食べました」という感想を聞くことが増えました。先述したCランクの施設では7〜9割近くに上り、Bランクの誰もが名前を知っているような全国展開のホテルでさえ4割近くいます。

結婚するカップルの親はバブルを経験している世代が中心です。それでいて子ども世代の経験が少ない理由の1つは、ファミレスをはじめ低価格の外食が増えたことでしょう。また、ワリカンが当たり前の世代なので、バブル期のように「デートで高級レストラン」「クリスマスはシティホテルに宿泊」というような“ご馳走文化”がなくなっていることも関係あると考えています。

ただ、「テーブルマナーの存在すら知らない」というのと「低価格の外食」は関係あるの? だって、高級レストランではスープを音立てて啜ってはいけないけれど、ファミレス或いはサイゼリヤならかまわないという話ではないだろう。煩雑なマナーはともかくとして、スープやパスタは音を立てて啜らない、「ガチャガチャと音を立てて食器を扱」わないといった基本的なマナーというのは親の躾の問題ではないかと思った。自分の息子には、スープやパスタは音を立てないと1度か2度言ったけれど、それ以降、基本的には守っている。「テーブルマナーの存在すら知らない」という人はどのような躾を受けたのか? しかし、私自身のことを考ええると、そういう「マナー」を親から教えてもらったという記憶はない。私の親は、平気でスープを音を立てて飲むような人だった。だったら、どうやって身に着けたのか? 

或る湯桶読み

J-CASTニュース』の記事;


立憲議員、「手当」をまさかの誤読 「てとう、てとう...」連発にネット困惑「小学校で習う漢字だよね?」
2023年06月02日12時13分


立憲民主党の田島麻衣子参院議員(46)*1が2023年5月30日の参院経済産業委員会で、「手当(てあて)」を「てとう」と読む場面があり、ネット上で戸惑いの声が相次いでいる。


「てとう?」「ん?ん?国会用語なの?」
話題になったのは、岸田文雄首相の長男・翔太郎氏の公邸忘年会問題について追及する中での田島氏の発言だ。

田島氏は、翔太郎氏が6月1日付で首相秘書官を辞職するにあたり、各種手当を返納するのかについて質問。具体的な手当について、

「住居手当・通勤手当・期末手当・退職手当...」
と列挙したが、「手当」の部分を全て「てとう」と読んでいた。

その後、岸田首相は「通勤手当・住宅手当、これについてはもともと支給されておりません」などと答弁したが、手当の部分は「てあて」と読んでいた。

田島氏の「誤読」にネット上では、「てとう?」「ん?ん?国会用語なの?」「読み間違い?それとも業界用語?」「手当って小学校低学年で習う漢字だよね...?」など困惑の声が相次いでいる。


https://www.j-cast.com/2023/06/02462673.html?p=all
ちょうどこの件に関して、ニュース番組で見て、「てとう」に吃驚して、もしかして、「手当」を「てとう」という方言、或いは堅気の人間では窺い知れないプロの世界でもあるのか? と思ったりもしたのだけど、現在のところ、そういうのがあるという情報は現在のところ得ていない。
政治家と漢字といえば、麻生太郎が「踏襲」を「ふしゅう」と念んだり*2、「未曾有」を「みぞゆう」、「怪我」を「かいが」と念んだりしていた*3。また、安倍晋三が「云々」を「でんでん」と念んだり*4、「背後」を「せいご」と念んだりしたこと*5もまだ記憶に新しいのではないだろうか。まあ、田島さんがこうした件で麻生や安倍をdisったことがあるなら、秘かに謝罪しておいた方がいいだろう。
「手当」に意味が関連している言葉としては日当というのがあるけれど、こちらはヒアテではなくニットウ。

1.26

NHKの報道;


去年の出生率1.26で過去最低 7年連続で前年を下回る
2023年6月2日 14時00分


1人の女性が産む子どもの数の指標となる出生率は去年1.26で、7年連続で前の年を下回り統計を取り始めて以降最も低くなったことが厚生労働省のまとめで分かりました。

厚生労働省は2日、去年の「人口動態統計」の概数を公表しました。

それによりますと1人の女性が一生のうちに産む子どもの数の指標となる「合計特殊出生率*1は、1.26でした。

おととしの確定値と比較すると0.05ポイント低下していて、前の年を下回るのは7年連続となります。

1947年に統計を取り始めて以降では2005年の確定値が今回と同じ1.26で過去最低でしたが少数点以下の詳細な数字の比較で今回は2005年を下回っているということです。


都道府県別の合計特殊出生率
都道府県別で最も高かったのは
沖縄県で1.70
次いで
▽宮崎県が1.63
鳥取県が1.60でした。

一方、最も低かったのは
▽東京都で1.04
次いで
宮城県が1.09
▽北海道が1.12でした。

また去年1年間に生まれた日本人の子どもの数は77万747人で、おととしより4万875人減少し1899年に統計を取り始めて以降、最も少なくなり、初めて80万人を下回りました。

一方、死亡した人の数は156万8961人とおととしより12万9105人増加し、統計を取り始めて以降、最も多くなりました。

このほか結婚の件数は、おととしが戦後、最も少なくなるなど減少傾向が続いていましたが、去年は50万4878組と、3年ぶりに増加に転じました。
(前年比:3740組増)

離婚の件数は17万9096組で3年連続で減少しました。
(前年比:5288組減)

厚生労働省は「少子化が進む背景には結婚や出産、子育ての希望の実現を阻むさまざまな要因が複雑に絡み合っていて、新型コロナの流行も結婚や妊娠に影響した可能性があるのではないか」としています。


出生数は減る一方
1人の女性が一生のうちに産む子どもの数の指標となる「合計特殊出生率」は確定値で統計を取り始めた1947年は4.54でした。

その後は低下傾向が続き1961年は1.96と初めて2を切り、2005年には1.26まで低下しました。

翌年の2006年からは一時、増加傾向となり2015年には1.45まで増加しましたがその後は再び低下傾向となり、おととし(2021)は1.30でした。

また出生率の低下傾向とともに出生数も減少が続いています。

日本人の出生数は確定値で統計を取り始めた1899年は138万6981人でした。

その後、増加傾向が続き第1次ベビーブームにあたる(昭和22年~24年)1949年には最多の269万6638人に上りました。

そのあとは減少傾向となり、1960年代から1970年代半ばごろにかけて一時、増加に転じ第2次ベビーブームにあたる(昭和46年~49年)1973年には209万1983人に上りましたが、その後は再び減っていきました。

1990年代は120万人前後で推移していましたが、2000年代に入るとさらに減少傾向となり、2016年には97万7242人とはじめて100万人を下回りました。
(後略)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230602/k10014086241000.html

また、「首都圏のニュース」;

去年の「合計特殊出生率」 関東1都6県いずれも前年下回る
06月02日 15時54分


1人の女性が産む子どもの数の指標となる出生率は去年、関東の1都6県でいずれも低下し東京都は全国で最も低い1.04となりました。

厚生労働省は2日、去年の「人口動態統計」の概数を公表しました。
それによりますと1人の女性が一生のうちに産む子どもの数の指標となる「合計特殊出生率」は、1.26でした。
おととしの確定値と比較すると0.05ポイント低下していて、前の年を下回るのは7年連続となります。
関東の1都6県では群馬県が1.32と最も高く(前年:1.35)、次いで茨城県が1.27(前年:1.30)、栃木県が1.24(前年:1.31)、千葉県が1.18(前年:1.21)、埼玉県と神奈川県が1.17(前年:いずれも1.22)、東京都が1.04で(前年:1.08)、いずれも前の年を下回り、このうち東京都は全国で最も低くなりました。

1人の女性が産む子どもの数の指標となる出生率が、東京都は全国で最も低い1.04となったことについて、東京都の小池知事は記者会見で「少子化対策は、国の根幹にも関わり、かつとても個人的な課題だ。『子どもを持ちたい』とか『結婚したい』という思いなどを整えていくことが必要ではないか。都としてできることをしっかり進めていきたい。国もきのう、戦略の素案を示したが、やはり心に響くような総合的な施策が可及的速やかに必要だ」と述べました。
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20230602/1000093243.html

「違憲」判断

同性婚を認めないのは「違憲」 国への賠償請求は棄却 名古屋地裁https://www.asahi.com/articles/ASR5Y6CQ6R5POIPE00C.html


曰く、


法律上同性同士の結婚(同性婚)を認めていないのは憲法に違反するとして、愛知県内の同性カップルが国を訴えた訴訟*1の判決が30日、名古屋地裁であった。西村修裁判長は「憲法14条にも同24条2項にも違反する」との判断を示した。ただ、国への賠償請求は棄却した。同種訴訟で、憲法14条に違反するとの司法判断は2021年3月の札幌地裁判決*2に続いて2例目。同24条に違反するとの判断は初めて。

同種訴訟は全国5地裁で起こされ、今回の判決は4件目。違憲性について、札幌は「違憲」、22年6月の大阪は「合憲」*3、同年11月の東京は「違憲状態」と判断は分かれたが、賠償請求はいずれも棄却していた。6月8日には福岡地裁で判決が予定されている。
See also


同性婚認めないのは憲法違反 違憲判断は全国2件目 名古屋地裁https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230530/k10014082521000.html
安田聡子「【違憲判決】「同性同士の結婚を認めないのは、14条1項と24条2項に違反」名古屋地裁違憲判決(結婚の平等訴訟)」https://www.huffingtonpost.jp/entry/marriage-equality-ruling-nagoya_jp_6472dba3e4b045ce24836e6b
安田聡子「名古屋の違憲判決は国の主張を「真っ向からぶった切った」今まで以上に踏み込んだその内容とは【結婚の平等裁判】」https://www.huffingtonpost.jp/entry/nagoya-not-recognizing-marriage-equality-unconstitutional_jp_647594d4e4b0a7554f405b39
ハフポスト日本版編集部「【判決要旨全文】「同性同士の結婚が認められないのは、14条1項と24条2項違反」名古屋地裁違憲判決。その内容は?」https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_647443cee4b0047ed77c6cf5

「生きる」と「書く」

清水有香*1「自作にまつわる数奇な体験談」『毎日新聞』2022年8月6日


いしいしんじ*2『書こうとしない「かく」教室』を巡って。


「書く」ことをめぐる話は「裏返して『生きる』という話になった」。大阪に生まれ、東京、三崎(神奈川)、松本(長野)、京都と移り住んできた、それぞれの土地での暮しが語られる。”自叙伝”でもある本書には、自作にまつわる数奇な体験談がひしめく。

例えば初の長編『ぶらんこ乗り』(2000年)に登場する「たいふう」は、幼少期に自ら作った物語だ。30歳を過ぎて心も体もボロボロになった時、療養のために帰った実家で”再会”した。そこには「言葉を使って自分と世の中に橋をかけることを、本気でやっていた4歳半のしんじくん」がいた。その「勇気」に励まされ、再び筆を握って以降「『たいふう』の続きを書いている」と語る。
書くことをしながら「生きることの練習をやっていた」とも言う。「人間が生きるというのは世の中との関りを持つことだと思うんです」。妻の園子さんをはじめ〈他人がいてくれる喜びが、小説を書く喜びにつながった〉。定期的にクラシックコンサートに通い、楽しかった時間が音楽劇『麦ふみクーツェ』(02年)に反映されたように。実生活と小説世界は当たり前のように交わる。
『みずうみ』(07年)の執筆中には妻の死産を経験。我が子の死を聞かされた〈あの瞬間、ぼくの世界が折れ曲がった〉感覚は、この小説にも映し出されている。「自分の書いているものの中には誰かと会った喜びや会話してここちよい感じ、亡くなったと知らされた時の地球が止まった感じも全部にじんでくる」
〈ことばとは、過去現在未来の記憶をひっかける釣り針のみたいなもの〉。(略)さまざまな土地に移り住み、出会った人、風景、食、そのすべてがいしいさんの小説に織り込まれている。

肥後国の話

児玉幸多『佐倉惣五郎*1から。
佐倉惣五郎」は「肥後国」生まれであるという説(設定)。芝居『花雲佐倉曙』における「惣五郎の伯父」「迎然」*2の科白;


(前略)お前方も知ってのとおり、この惣五郎は筑紫生れ、肥後の国、音川家の御領分、高津何某とて親代々の大庄屋、訴えの事で家は闕所。愚僧がためには母方の甥、その縁でこの伯父を尋ね、下総へたどり来たを、寺に置いて世話する内、村の衆になじみがふえ、発明なが耳に入り、養子にくれよとたっての所望、養父惣佐衛門殿は過ぎ行かれ、今では細き煙を立て、身貧にはくらせども、大庄屋の給米で、女房・子を今日まで安楽に養うて来たは、これみな養父惣佐衛門殿の影、百姓衆の助力、多くの人の身代わりに成って死ぬれば、先祖への孝も立ち、又義も立つ道理(Cited in p.26)
また、惣五郎の科白;

(前略)そち*3もかねて知るとおり、もと某は肥後の国熊本領にて五ケ庄の産なりしが、先祖は平家の落人にて、一村残らず無年貢の土地なりしに、時の役人の計いにて、年貢の取立より一揆起り、多勢の難を引きうけて、某一人追放となる。すなわち当村仏頂寺の迎然和尚は、俗縁の伯父になるゆえ、この下総にさまよい来て、不思議の縁でこの家へ入聟。舅殿も世を去って、名主の役儀も相続すれば、星霜をいだいて油をしぼり百姓より給金同様の役料を取り、我々夫婦・子供まで安楽にくらすからは、かかる時には肉をさき、骨を粉にくだくとも、ちっともいとわぬかねての覚悟、とはいうものの我とても心にかかる妻子の事(Cited in p.27)
児玉は「肥後五箇庄としたのは、年貢の取立てや百姓一揆を出すために、あたりさわりの少ない地を選んだのではないかと思われる」と述べているが(p.28)、どんなものだろうか?
さて、この「肥後国」生まれの惣五郎という設定は、明治になると、肥後に逆輸入されてしまう;

(前略)明治三十一年、口の宮明神*4の祠官で宗吾教会長の栗原清氏が[熊本県の]五箇庄葉木村に赴いて、東洋救世主佐倉宗吾神霊誕生地という木標を建てた。このことは同氏の『宗吾神霊伝 附五家庄紀行』(明治三十二年刊)にくわしい。それによると五箇庄葉木村の地頭緒方氏の系譜に、桓武天皇二十九代の孫、緒方宗佐衛門実宗の嫡子に、緒方信次郎宗吾*5という人があって、それが宗吾*6であるという。また仁田尾村(五箇庄内)の地頭左座氏は菅原道真の後裔であるが、その由緒の中に、肥後の住人杉内右衛門という者が阿蘇家より知行を与えられていたが、その百姓二人をいわれなく殺したので、村民が阿蘇へ訴え出ようとした。杉内はヒグリの難所*7で石弓を構えて、二十二人中の二十人を殺したが、二人が逃れて阿蘇に訴えた。その一人が葉木信次郎で、これが宗吾の通称だというのである。また椛木村(五箇庄内)地頭の弟駿河という者が剃髪して教全といったが、これが下総の下岩橋村の大仏頂寺の光全*8となったというのである。これでは宗吾と光全が伯父・甥という関係は出てこない。かりに葉木信次郎に右のような事実があったとしても、それが惣五郎の前身であるという関係は明らかにされていない。そのほか、葉木村に宗左衛門杉というのがあるが、これは宗吾の父の墓標であるという。これが角田政治氏の『熊本県誌』(大正六年刊)によると、葉木村に宗吾杉と称する老杉が数株あって、宗吾が植えたものだとされている。また義雲祠という宗吾の廟もある。これは栗原氏よりあとになってできたもので、栗原氏の紀行文には宗吾杉も出ていない。栗原氏は旧佐倉藩士で、惣五郎の遺蹟顕彰に努めた人で、将門山から出た白骨を惣五郎のものであることなどを主張したりしたが、その仕事には牽強付会の嫌いがある(後略)(pp.28-30)
惣五郎=余所者説はほかにもある;

(前略)惣五郎は播州兵庫県加古郡小山村の人で、俗縁の伯父が大仏頂寺の就職であったので、その縁で食客になっていた。それが木内惣右衛門の婿になったのであるという説もある。また台方村(千葉県印旛郡*9の名主であった鈴木氏が惣五郎遺愛の刀というものを宗吾霊堂に寄進しているが、その説明文によると、惣五郎の生国は不明で、堤防工事の人夫としてきて、鈴木家に数年間寄食してその家人となり、木内家に養子に行ったものであるという。これに似たものには、印旛郡吉高村*10の富井清左衛門の家でわらじを脱いだという説と、清左衛門の弟だという説とある。そして、公津村の名主理兵衛の婿になったであるという。吉高村の迎福寺*11過去帳には公津村の惣五郎の戒名があって、その伝説を簡単に否定しにくい。(後略)(pp.30-31)

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/05/03/153002 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/05/09/103908

*2:「光全」という表記もあり。

*3:惣五郎の女房を指す。

*4:See eg. 「大佐倉将門口ノ宮神社|佐倉市大佐倉の神社」https://tesshow.jp/chiba/sakura/shrine_osakra_masa.html

*5:「そうご」ではなく、「むねよし」。

*6:佐倉惣五郎」のこと。

*7:

*8:これまでの表記では「迎然」。

*9:現在は成田市成田市台方。See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20131101/1383315848 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170407/1491538185

*10:現在の印西市吉高。See rg. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%AB%98_(%E5%8D%B0%E8%A5%BF%E5%B8%82) 印西市環境経済部経済振興課プロモーション推進室「吉高の大桜」https://www.city.inzai.lg.jp/0000001355.html 「吉高城」http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/joukan-tiba/yositaka-jou-inba-tiba/yositaka-jou-inba-tiba.html 三諸(みもろ)「吉高宗像神社」https://ameblo.jp/unonosarara0206/entry-12677114462.html

*11:http://www.koufukuji.jp/

「高島」/「高嶋」など

山下泰平「五〇年間ずっと嘆き続けながら問題を放置した日本社会」https://cocolog-nifty.hatenablog.com/entry/2023/05/23/172400 *1


「昭和一二(一九三七)年に出版された『同し方向へ 高島米峰明治書院』」というのが出てくる。因みに、こういうふうに、タイトル、著者名、発行者を一纏めにして『』の中に括ってしまうという文献表記法には全然馴染みがなかった。まあ、やめておいた方がよかろう。さて、この「明治書院」というのは、教育学関係図書で有名な、あの「明治書院*2のことなのだろうか? そfれはともかくとして、「高島米峰」というのは仏教学者で、東洋大学学長を務めたこともある人。表記としては、「高島米峰」と「高嶋米峰」で揺れているようだ。Wikipediaは「高嶋」*3
上越市立歴史博物館「高嶋米峰(たかしま べいほう)」に曰く、


生年1875 没年1949


代用教員から哲學館へ
1875年(明治8年)高嶋米峰は、竹直村(現吉川区竹直)真照寺住職高嶋宗明の長男として生まれ、幼名を大円と称しました。幼いころ両親を失った大円は、京都にいる父の弟 香川葆晃(かがわほうこう)に託され、植柳小学校で学び対校討論会で優勝、また作文では京都府知事賞を授与されるなど、幼い頃からその類な才能を如何なく発揮していました。
父の墓参のため帰郷した大円は、1886年明治19年)雁子浜(現大潟区雁子浜)の冬季分教場の代用教員を務め、自分よりも年長の生徒が多い中わずか3か月でしたが無事務めを果たしました。
その後京都に戻り西本願寺文學寮(普通教校を改称統合、現龍谷大学)で学んだ大円は、病に倒れましたが打ち克ち、再び勉学に励み 1896年(明治29年)には哲學館(現東洋大学)教育學部を21歳で卒業しています。


新仏教運動を起こす
1899年(明治32年)大円は、哲學館の同窓である境野黄洋(さかいのこうよう)らと佛教清徒同志會(後の新佛教同志會)を結成し、既成教団の改革などを目的に新仏教運動を起こしました(この頃から米峰と号す)。当時の廃娼運動や禁酒運動には、先頭に立って活発に活動を展開しました。
1900年(明治33年)雑誌「新佛教」を創刊、丙午出版社を興した米峰は 、その後 1911年(明治44年)に廓清會を設立し、道徳的理想主義の立場から東京吉原花魁道中禁止、公娼制度制限法案提案などの運動を繰り広げています。


宗教放送、そして終戦
大正末期から昭和初期にかけてラジオの黎明期、米峰は自らの宗教観など電波を通じて多くの国民に語りかけています。幼い頃から弁舌に長けていた米峰の語り口は当時反響を呼び、大変人気が高かったと言われています。
また、米峰は1943年(昭和18年)から 1944年(昭和19年)までの1年4か月の間、母校東洋大学第十二代学長を務めています。長い間仏教運動の先頭に立ち活躍していた米峰でしたが、老齢と敗戦の打撃から、1949年(昭和24年)10月疎開先である三鷹市で74年の生涯を閉じました。

ところで、米峰の後任として、東洋大学学長になった高島平三郎という人がいるが*4、こちらの方はWikipediaを含め「高島」で*5、「高嶋」という表記は見当たらなかった。


高島米峰のユーモア」https://blog.goo.ne.jp/matsunaga4dankai/e/584c1702121299ad75e5614d28ea1630


融道玄と鈴木大拙と高島平三郎と高嶋米峰;


融道玄と鈴木大拙とは同年代、東京帝大は鈴木が卒業した年に相前後して融が入学する。前者はスペイン風邪が悪化して46歳で亡くなり今ではほぼ世間的には忘れられた存在、鈴木は「近代日本におけるもっとも偉大な仏教者」として賞賛され、文化勲章も受章。
融道玄と高島平三郎は子供時代からの知り合い。道玄の兄貴:小田勝太郎と高島はともに講道館で柔道を学んだ。
道玄と高島米峰はともに宗教学者で、同志的間柄。高島平三郎と米峰は東洋大学の教員で、ともにそこの学長経験者。両者は道玄を媒介としながら親密な間柄だった。
戦後、東洋大学の教授で所謂人生論本を量産した堀秀彦という人がいたのだけど*6、この人も学長を務めている。ネットで検索しても、「堀秀彦」に関する情報はネット上には殆どないということを再度確認した。